初の歓喜は「超二流選手たちの勝利」

1982年から3年間、大洋の監督を務めた関根監督
中畑清監督が就任、そのキャラクターでチームを盛り上げ、躍進の礎を築いた印象も新しい
DeNA。その後、
ラミレス監督を経て
三浦大輔監督となっているが、大洋、横浜の時代を通じて、監督のキャラクターが前面に出てくることが少ないチームだった。優勝、日本一も少ない。1960年、98年の2度だけだ。
初のリーグ優勝、日本一となった60年は
三原脩監督だった。前年まで6年連続で最下位に沈んでいた大洋を就任1年目にして一気に頂点へと引き上げて、「超二流選手たちの勝利」と語っているが、監督としてのキャリアを通じて「花は咲きどき咲かせどき」「練習場では自分を下手と思え、試合場では自分を上手と思え」「勝負は実力5、運3、調子2の割合である」などの名言が語り継がれる名将でもある。とはいえ、大洋での優勝、日本一は1回のみ。三原監督のキャリアでは西鉄(現在の
西武)黄金時代のほうが輝きは強いと言えるだろう。
98年の
権藤博監督は、やはり就任1年目の歓喜だったが、監督の経験は横浜のみ。
大矢明彦監督のコーチから昇格したもので、選手に自身を監督ではなく「権藤さん」と呼ばせるなど独特のチームづくりでも知られた。つい数年ほど前にテレビドラマで話題になった言葉だが、権藤監督が選手に言い続けていたのが「やられたら、やり返せ!」だったという。ありふれた言葉で、シンプルだが、失敗した選手は必ず再びチャンスを与えられて、38年ぶりの頂点にたどりついた。
この両雄の間に挟まる監督たちの言葉には、どこかのんびりした雰囲気が漂っている。82年に就任した
関根潤三監督は
長嶋茂雄の招聘のための“つなぎ”と言われていたが、自身は「ミスター(長嶋)が(監督で)来るなら僕はすぐ譲ってコーチになりますよ」と言っていた。その後を受けた
近藤貞雄監督はアイデアマンで名言も多いが、自ら名づけて売り出した“スポーツカー(のちスーパーカー)・トリオ”こと
高木豊、
加藤博一、
屋鋪要がことごとく盗塁に失敗した際には「お前ら“耕運機”か!」と怒鳴りつけたという。監督の個性がにじみでた“迷言”だろう。
文=犬企画マンホール 写真=BBM