上昇を続けたヤクルト人気

1988年、立大からドラフト1位でヤクルトに入団した長嶋
これまで2度にわたって、1987年に旋風を巻き起こしながら退団、帰国した
ボブ・ホーナーがプロ野球に残り、
巨人、
阪神へ移籍したら、という「もしも」を考えてみた。言い換えれば、この「もしも」は、ヤクルトを退団することが前提だったということでもある。当時の
関根潤三監督は、ホーナーの退団を振り返って「外国人の多い六本木ではなく、新宿にマンションを用意したことが最大の失敗。夫人が孤独に耐え兼ね、ホーナーも神経質になった」と語っている。この回顧が的を射ていたとしたら、帰国やチームの移籍という以前に、マンションの転居だけでヤクルトに残留していた可能性があったわけだ。
80年代のヤクルトは、成績こそ振るわなかったものの、チームは明るさを失わず、人気も上昇を続けていた。これにはホーナーの貢献も大きいが、83年に甲子園でアイドル的な人気を誇った
荒木大輔がドラフト1位で入団したことを皮切りに、85年には同じくドラフト1位で
広沢克己が入団。ホーナーが去った87年オフには、“ミスター・プロ野球”こと
長嶋茂雄の長男で、現在はタレントとして人気の
長嶋一茂が、やはりドラフト1位で入団して、ヤクルト人気は頂点に。広沢とクリーンアップを組んだ
池山隆寛や、先日のWBCで侍ジャパン監督として世界一に輝いた
栗山英樹らは、甘いマスクでも騒がれた。
栗山が初めてベストオーダーに並んだのは、ホーナーが去ったばかりの88年。そんなシーズンにホーナーがいたら、どうなっていただろうか。今回は、ヤクルト87年のベストオーダーからホーナーの「四番・三塁」を88年のベストオーダーにスライド。機械的に同じ三塁手を打線から外し、四番打者は繰り上げ、または繰り下げてみると、以下のラインアップとなった。
1(中)栗山英樹
2(二)
桜井伸一 3(遊)池山隆寛
4(三)ホーナー
5(右)広沢克己
6(一)
杉浦享 7(左)
小川淳司 8(捕)
秦真司 9(投)
伊東昭光 実際のベストオーダーは?
ホーナーに弾き出される形となったのは、同じ三塁手の長嶋一茂ではなく、87年と同じく歴戦の
角富士夫だ。ただ、角のような渋い巧打者が代打の切り札でいるのは心強い。一方、ルーキーの長嶋は実際には自己最多の88試合に出場している。注目度では他を圧倒する存在だっただけに、ホーナーとベテランの角、そしてフレッシュな長嶋による三つ巴のポジション争いも、ヤクルト人気を加速させそうな要素といえそうだ。
また、実際のホーナーは87年の終盤、すぐに引っ込みたがったが、そうしたときには「若手にチャンスをやってほしい」と言っていたという。若手の三塁手といえば長嶋。一方、ホーナーの打棒を見た当時の広沢は「あのパワーは真似できないけど、上体のブレないフォームは参考になります」と語っている。もし実際の87年と同じことが起きていたとしたら、ホーナーの打撃フォームを参考にした長嶋がシーズンの終盤になって三塁のレギュラーに定着していた、ということもあったかもしれない。あくまでも可能性なのだが、長嶋のレギュラー定着があれば人気は現実のものを超えていたかもしれない。
ただ、プロ野球で人気は重要ではあるものの、必ずしも結果と結びつくものではない。人気がピークに達した88年のヤクルトだが、成績はリーグ優勝の
中日から22ゲーム差と離された5位。ホーナーの残留や、長嶋らによるチームの活性化で、この大差が覆るかどうか。栗山が打線を引っ張り、池山、広沢らの“イケトラ”の間にホーナーが挟まっていて、そこに左打者で勝負強さを誇る杉浦享が続くクリーンアップは魅力的なのだが……。では、続きはファンの皆様の夢の中で。
(ヤクルト1988年のベストオーダー)
1(中)栗山英樹
2(二)桜井伸一
3(遊)池山隆寛
4(右)広沢克己
5(一)杉浦享
6(三)角富士夫
7(左)小川淳司
8(捕)秦真司
9(投)伊東昭光
文=犬企画マンホール 写真=BBM