ナインの熱望で復帰

特徴的なバッティングフォームも記憶に残るフランコ
ロッテが川崎から現在の千葉へ移転したのは1992年のこと。長い低迷にあったチームは新天地で心機一転、ユニフォームを刷新した。地の色はホームでホワイト、ビジターではグレーに近いブルーとオーソドックスだったが、ブラックの文字をピンクで縁取ってみせた。この、あまり例のないカラーリングを嫌がり、変えさせてしまった助っ人がいる。1995年に入団した
フリオ・フランコだ。
メジャー歴戦の大物だが、ユニフォームだけでなく、他の選手が着けていた背番号を次々に要求するなど、当初はトラブルメーカーになることを予感させてしまったのは確かだ。だがフランコは、こうした嫌な予感を裏切っていった。ユニフォームは現在のデザインに連なる原型ともいえるものに変わり、それに身を包んだフランコの打撃フォームが個性的。グリップを頭上に構え、バットがライフルになったかのように先端が投手のほうを向く。外国人の打者に求められがちな長打力には欠けたものの、そんな異色のフォームから打率.306の安定感を発揮して、チームも2位に浮上した。Aクラスはチーム10年ぶり、千葉へ移転してからは初めての快挙。ただ、オフにボビー・バレンタイン監督が退任、フランコも退団して、わずか1年で帰国した。
ただ、この1年でフランコがロッテに残したものは大きかった。メジャーへ復帰して活躍していたフランコは、ロッテのナインによる熱望で98年に復帰。「やり残した仕事に決着をつける」と語ったフランコは、主将としてチームに迎え入れられた。ナインの要望も助っ人の再来日も、さらには助っ人の主将も、すべて異例のことだ。
だが、その98年、ロッテは6月から7月にかけて悪夢の18連敗を喫するなど、最下位に沈む。「やり残した仕事」、つまり優勝には遠く届かず、フランコもオフに退団した。とはいえ、この98年の18連敗は地元ファンから注目を集め、熱狂的なファンが増えるようになったエポックといえるシーズン。わずか2年の在籍で、突出した数字は残してはいないものの、ロッテ、特に千葉ロッテの歴史で決して忘れてはいけない助っ人だ。
写真=BBM