『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。 
『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙
MVPは村山
今回は9月28日発売、1962年編から
阪神がリーグ優勝を決めた話です。
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「うれしいんだが、なんでかな……。泣けてたまらんかった……」
10月4日の早朝、阪神・藤本定義監督は新聞を読みながら、涙がボロボロとこぼれてきたと明かす。
プロでのプレー実績はないが、早大では名投手として鳴らし、1936年のプロ野球公式戦スタート時から
巨人監督。以後、春秋を含む7度の優勝を果たした。当時は気の強さから『闘犬』とも言われたが、実は人一倍の感激屋でもあった。
このとき57歳、年とともに涙もろくなっていたが、それにしても夢のような1日だった……。
前日の3日、勝てば優勝のシーズン最終戦で、
小山正明が
広島相手に27勝目を挙げ、阪神の2リーグ制後、初の優勝が決まった。小山はセのシーズン最多記録となる13試合目の完封でもある。
甲子園球場のグラウンドに一気にファンがなだれ込む。混乱の中で藤本監督がファンと選手の手で宙を舞う。藤本監督はじめ、小山、
村山実、
吉田義男……、多くの選手、関係者が涙を流しての胴上げだった。
そのあと、記者たちに囲まれ、「この優勝はタイガースを愛してくださるファンのおかげです……」と話す藤本監督。目は真っ赤、言葉も途切れ途切れだった。吉田は「ここに三宅(
三宅秀史)がいてくれたら」とケガで入院中の親友を気遣った(試合前の練習中にケガ)。
1日を空け、5日には甲子園を出発の優勝パレード。5台のオープンカーに分譲し、尼崎、西宮、芦屋、神戸と進む道の往復だ。当初は御堂筋のプランもあったが、交通事情から断念したという。
沿道に人が詰めかけ、途中、花火も上がる盛大なもの。正午に出発し、甲子園に戻ったのは予定を大幅に過ぎた17時半過ぎだった。ずっとファンと握手し続け、右手が腫れあがった選手も多かった。
パレードのあとの25勝14敗、防御率1.20で最優秀防御率を獲得した村山のMVPの会見。25勝で小山の27勝に及ばなかった村山は、「そんな……小山さんと思ったのに」と表情を曇らせた。
記者投票だが、理由の一つに投票用紙が10月3日、東京の共同通信社必着だったため、最終戦の小山の好投が反映されなかったとも言われた。
そのあと、あらためて祝勝会を開いたが、そこに小山の姿はなかった……。
小山、村山についてはもともと不仲がウワサされていたこともあって、小山がこれにすねてしまったような報道もあったが、実際には違った。村山は誰もいないロッカーで2人きりになった際、「お前が選ばれてよかったんや」と小山から声を掛けられ、感激の涙を流している。
日本シリーズの相手は、前年暮れ、藤本が「日本シリーズをやる夢を見たんだ」という
水原茂監督率いる東映フライヤーズだった。