『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。 
『よみがえる1958年─69年のプロ野球』1962年編表紙
青田の復讐劇?
今回は62年編からの抜粋ではなく、当時の監督の人間模様について少し触れておく。書き出すと長くなるので、要所だけで失礼します。
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「今年はまず川上と戦い、それから三原と戦い、そして最後に水原と決戦することになった。どうも因縁というのか、
巨人で育った連中とばかりしのぎを削ってきたが、僕は特別に過去を意識しません。3人の性格も野球のやり方も把握しているから慌てることもないしね」
2リーグ制で初優勝を飾った
阪神・藤本定義監督が日本シリーズを前に余裕の表情で話した。
このとき57歳。戦前の第1期黄金時代の巨人監督であり、激しい優勝争いを繰り広げたセ・リーグの巨人・
川上哲治監督、大洋・
三原脩監督、パを制し、日本シリーズで対峙する東映・
水原茂監督は、いずれも当時の教え子となる。
ただ、藤本監督の3人へのスタンスは違っていたようだ。
おミズこと水原、テツこと川上に関しては、まさに「師弟関係」。巨人コンプレックス払拭のため、川上監督には厳しく接したようだが、川上監督は特にそれに対し、恨みがましい言葉はない。
ただ、三原監督は「俺は藤本の弟子なんてとんでもない」と言い放って距離を取り、舌戦もあった。
藤本監督が「三原の投手の使い方はなっていない。みんな壊れるぞ」「三原は俺の弟子だ。負けるはずがないだろ」と言えば、三原監督は「僕は藤本さんに何も教わっていない。藤本さんがいつまでも古い野球で勝つのは難しいよ」「秋山(
秋山登)は小山(
小山正明)、村山(
村山実)ほど酷使していない」と反撃。
藤本監督も時に本気でカチンとくることもあったようだ。
自身も藤本監督、三原監督の教え子で「僕が野球を教えてもらったのは三原さんで、選手の使い方は藤本さんから習ったわけですね」という阪神のヘッドコーチの
青田昇が、解説者時代に話したことがある。
「三原さんは四方八方敵やな。大洋、巨人の場合(優勝争い)なら爺さん(藤本監督)はやっぱり大洋をたたきよるわ。哲ちゃんを優勝させようということでね。三原さんはものすごく頭が切れ、日本野球界を切り替えた人だけれども、敵が多過ぎる。あの人は10年先のことは全部読んでいた。それぐらいの先駆者であるのに、ただ口が災いするんですね。ワシも人のことは言えんけど(笑)」
名将・三原にここまではっきり言えるのも、じゃじゃ馬・青田だからこそだ。
さらに言えば、青田と三原監督にも因縁があった。1958年オフ、西鉄監督だった三原が西鉄には極秘裏のまま大洋監督に招へいされ、実現目前となっていた。
同年、西鉄は優勝、日本一を飾っていた。実現すれば大騒ぎになり、話自体がつぶれかねないと大洋はかん口令を敷いていたが、三原は選手数人と会い、翌季の相談をしていた。
そのうちの一人が青田。「頼む、頑張ってくれ」と言われたが、実は三原監督就任なら大洋放出予定であることを知り、これを新聞にリークし、話がつぶれていた。
それだけに、この1962年の優勝を「気持ちよかったぜ」と青田は言って笑っていた。