94勝はホークス通算“最多勝”
「日本の選手は、すぐに限界という言葉を口にする。人前で平気でね。この点を私はたしなめたい」
最初の東京オリンピックが開催された1964年、このように語っていたのが南海(現在の
ソフトバンク)最強の“助っ投”、ジョー・スタンカだ。この64年は南海と
阪神が両リーグで覇者となり、初めて本拠地を関西に置く球団による日本シリーズに。その頂上決戦での活躍が目立ったのが投打の助っ人たちだった。“助っ投”の
ジーン・バッキーが阪神を引っ張った一方で、南海は第6戦、第7戦と連続でスタンカが完封、南海を最後の日本一に導いている。体力的に「限界」という言葉が頭をよぎったことは想像に難くない。だが、「優勝のためなら腕が折れても投げる」と語っていたスタンカ。「連投には驚いたが、鶴岡さん(
鶴岡一人監督)の期待に応えたかった」と、圧巻の投球でシーズンに続いてMVPに輝いた。
メジャーでは1勝しか挙げられなかったが、来日1年目の60年から17勝。黄金時代にあった南海の投手陣で不可欠な存在となる。素直なストレートは少なく、ほとんどは打者の手元で動くクセ球。球速が落ちないまま少しだけ沈むシンカーなどをウイニングショットとした。納得のいかない判定で崩れることも少なくなく、61年の
巨人との日本シリーズ第4戦は、その典型だ。1点リードの9回裏に自信を持って投じたシンカーがボールと判定され、鶴岡監督が抗議したものの覆らず。そこからスタンカが投じた次の1球をサヨナラ打にされてしまう。
そこから球審を取り囲む乱闘が勃発。スタンカは「あれがボールなら、どこに投げればいいんだ!」と激怒、のちに「セ・リーグの審判は僕のシンカーの変化が分からなかったんだ」と語っている。64年の日本シリーズは、相手チームこそ違えど、その雪辱を果たすものだった。
南海6年間での通算94勝、818奪三振はチームがダイエー、ソフトバンクとなってもホークス助っ人最多として残る。最終的には2チーム7年間で通算100勝。これは64年の日本シリーズで投げ合ったバッキーと並んで歴代“助っ投”の3位タイだ。
写真=BBM