わずか2年の在籍だったが
1980年代の巨人で“先発三本柱”といわれたのは
江川卓、
西本聖、
定岡正二。続く90年代は
槙原寛己、
斎藤雅樹、
桑田真澄だ。ただ、80年代の“三本柱”は85年オフにトレードを拒否して定岡が現役を引退するまでで、87年オフには江川も引退、翌88年オフには西本もトレードで
中日へ移籍した。この過渡期に90年代の“三本柱”が頭角を現しつつあったが、88年に入団して江川の穴を埋め、90年代の“三本柱”につなぐ形になった“助っ投”がビル・ガリクソンだ。
桑田と親交があり、息子のミドルネームに「クワタ」と名づけたことでも知られるが、在籍は2年に過ぎない。それでも強烈な印象を残した右腕だった。糖尿病を患っており、インスリンを打ちながらのマウンドということも、ガリクソンのインパクトを強くした。左手の指先から血を抜いて糖の量を検査し、腹にインスリン注射を打つ。これを毎朝、自分でやっていたという。
メジャーでの実績も申し分なかったものの、190センチの長身から投げ下ろすストレートの球速は140キロほど。スピードガンの球速よりも打者が速く感じるストレートが江川のウイニングショットだったが、ガリクソンのストレートは、
王貞治監督をして「気合がこもっているから打たれない」と言わしめた。これを支えたのがストライクゾーンの四隅を丁寧に突く制球力と、変化球を織り交ぜた頭脳的なピッチング。インスリンを打ちながらのマウンドとは思えないほどのスタミナの持ち主でもあり、1年目の開幕2戦目から初完投初勝利、そのままリーグ最多14完投で、14勝を挙げている。
「日本の野球も分かってきた。20勝はできるんじゃないか」と迎えた翌89年だったが、春季キャンプから故障が続いたこともあり、7勝に終わって退団、帰国。だが、メジャーへ復帰してから復活、91年には20勝で最多勝に。巨人では斎藤が89年から2年連続で20勝を挙げており、もしガリクソンが残留して、メジャー同様の結果を残していたら、巨人から3年連続で20勝の投手が出たことになる。90年代の巨人は“三本柱”どころか、“投手王国”と呼ばれていたかもしれない。
写真=BBM