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逆転野球人生

ケガに泣いた南海のエース加藤伸一が30歳で戦力外も、広島でカムバック賞を受賞できた理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

学生野球の延長のような環境


南海時代の加藤


 倉吉北高3年C組の教室は、驚きの声に包まれた。

 1983年11月22日、同じクラスで隣同士に座っている2人の少年がドラフト指名を受けたのだ。広島から5位指名された石本龍臣と、南海から1位指名を受けた加藤伸一である。加藤がエースで、石本が控え投手だったが、先輩野球部員の行きすぎた下級生いびりや他校との暴力事件が度々問題となり、3年夏になっても対外試合禁止の処分が解けず、3年間を通して公式戦ではわずか3試合の登板に終わった。それでも、広島が加藤に対して「定時制の高校に通いながら練習生としてカープに来ないか」と勧誘。プロ11球団が挨拶に訪れた注目の逸材はそれを断り、鉄パイプを担いでスクワットをしながら近所をまわるスポ根漫画のようなトレーニングを自らに課して、鳥取県では初めての高校生のドラフト1位となった。

 のちに加藤は『東京スポーツ』の自身の連載「酷道89号〜山あり谷ありの野球路〜」でプロ入りの舞台裏を明かしているが、当初は3位以下の予定も、トイレに入った南海スカウトが他球団のスカウト同士の雑談から加藤の評価の高さを偶然耳にして、指名順位を繰り上げ小野和義の外れ1位で指名したという。

 初めてのキャンプでは中百舌鳥の練習場に隣接する団地に向かって、「今年、南海に入りました加藤です。どうぞよろしく!」なんて度胸試しの自己紹介が待っていた。試合前にはバックネットによじのぼらせて、客の前で「ミーン、ミーン」とセミのように鳴かせてメンタルを鍛える。監督や先輩選手からは「もっと大きな声で!」といった指導が入るルーキーを甘やかさない昭和の球界であった。

「プロ野球チームというより、軍隊にいるような感覚だったね。門限は10時半で、しかも1年目は電話番がある。公衆電話が5台あって、夕方5時から10時まで、ひたすら電話番!」(俺たちのパシフィック・リーグ 南海ホークス80’S/ベースボール・マガジン社)

 加藤がプロ入りした頃の南海二軍は、ファームの試合があると1年目の選手が先輩たちのバットやボール、ヘルメットやプロテクターまで野球用具を担ぎながら満員電車に揺られる学生野球の延長のような環境だった。それでも穴吹義雄監督や河村英文投手コーチはドラ1右腕の実力を高く評価し、84年4月下旬の西武戦で早くも1軍デビューを飾っている。

「初登板のときは緊張しましたよ、ムチャクチャ。そりゃそうですよね。高校のときでさえ公式戦で投げていないのに、いきなりプロの公式戦でしょ。ブルペンからマウンドまで歩くのもやっとでしたよ、ヒザがガクガク震えて。バッターは伊東(伊東勤)さんで、1球目アウトコースの真っすぐが決まって。それで落ち着けました」(週刊ベースボール85年6月10日号)

次代の南海を背負うスター候補生


 先輩投手の井上祐二が体調を崩し、若手の藤本修二もキャンプ中に猫にエサをやろうとして右手人さし指を噛まれる「ニャンコ藤本」事件で出遅れ、ルーキーの加藤に出番が回ってきた。当時は、期待の若手は数年かけて大事に育成するなんて概念はなく、使えると判断したらすぐさま実戦投入してとことん投げさせた。加藤も1年目から33試合で5勝4敗4セーブ、防御率2.76と高卒ルーキーながらリリーフに谷間の先発と投げまくる。80年代の南海の財政事情は厳しく、初めての契約更改で「これじゃ、あんまりだ」と思わず保留するほど低い年俸を提示されたが、背番号17は次代の南海を背負うスター候補生だった。往年の石原軍団にいそうな昭和のハンサムボーイは、チーム屈指の女性人気を誇り、キャンプではブルペンのテントのすき間からカメラを構える加藤ギャルが多数出現。北海道からわざわざ大阪・堺市の「秀鷹寮」までサインをもらいにくる熱心な女性ファンもいた。人気絶頂時の週ベには、「勝ちたいのは、いい気分でデートしたいから」なんて若かりし日のプレイボーイ加藤のコメントも残されている。

西武・渡辺[中]、日本ハム・津野[右]らと切磋琢磨した


 当時のパ・リーグには1965年生まれの渡辺久信(西武)、津野浩(日本ハム)、そして加藤と各球団で十代の投手が活躍。彼ら同期の3人をメディアは新世代の「19歳トリオ」と呼んだ。3人とも小泉今日子のファンで、加藤と同郷の鳥取出身の評論家・小林繁から、「3人の中で一番いい成績を残したやつはキョンキョンと会わせてやる」と言われて、必死に競い合う3人であった。85年のオールスターには、3人揃って初出場。加藤も前半戦だけで8勝を挙げていた。しかし、解説者として球場を訪れていた金田正一のアドバイスを取り入れ、慣れないフォームで投げたら右ヒジに違和感を覚える。後半戦に急失速してしまい9勝11敗1セーブ、防御率4.09。それでも189.1投球回とフル回転して、オフには晴れて1000万円プレーヤーとなり、「オヤジより多くなりましたから……。でも家に帰って、どういう態度をとればいいんでしょう」と初々しいコメントを残すハタチの加藤。だが、その体には登板過多の疲労が蓄積していた。

 杉浦忠新監督は「球威、ボールのキレが、並みのピッチャーとは1ランク違う」とエースの働きを期待するも、3年目の86年シーズン最初の登板となった4月8日の阪急戦で右ヒジの痛みを訴え、1イニングで降板(引退後に加藤自身が内側側副靱帯損傷だったことを明かしている)。右肩の違和感にも悩まされ、以降、故障とは長い付き合いになっていく。19歳トリオで切磋琢磨していた渡辺は屈強な身体とタフさで西武のエースとなり、日本ハムの津野も開幕投手を務め二ケタ勝利を記録した。同期たちに先を行かれた加藤は3年目に3勝、翌年も4勝と低迷するも、88年に27試合で8勝10敗3セーブと復調。防御率4.54ながらも3年ぶりの規定投球回に到達した。だが、個人成績どころではない衝撃的な事件が起きる。88年9月13日、南海ホークスが福岡のダイエーへの身売りを発表するのだ。

ダイエーを自由契約に


球団がダイエーとなり、新ユニフォーム発表会に佐々木[左]とともに出席した


 元号も昭和から平成へと代わったバブル好景気の真っ只中。世界的ファッションデザイナー三宅一生がデザインした新ユニフォームのお披露目会で、佐々木誠とともに新チームの投打の顔としてモデル役に抜擢されたのが加藤だった。そして日本ハムに連敗して迎えた開幕3戦目に先発すると、ダイエー球団初の勝利投手にもなる。九州で迎えたプロ6年目、キャリアハイの12勝を挙げて、ついに鷹のエースの座をつかみ取った。しかし、これからというときにまたもや故障に泣かされる。

 右肩関節周囲炎で90年は登板なし。翌91年の4月に550日ぶりの涙の勝利も、92年のキャンプで右肩痛が再発して満足にボールを投げられなくなる。そして、「これでダメならあきらめがつく」と92年7月2日に最後の手段として、右肩関節唇部分除去手術を行うのだ。そこから長いリハビリ生活が始まった。

「もう電話も取りませんでした。後援会や実家から「頑張れ」とよくいわれましたけど、それがイヤでした。元気づけてくれて嬉しいという気持ちもありますけど、それより、ほうっておいてほしい、という気持ちの方が強かったですね。期待に応えられない苦しさが募りますから……」(週刊ベースボール94年4月11日号)

 ファームでの調整登板ではこれまでの力で押す投球ではなく、スライダーやパームボールを習得してモデルチェンジを試行錯誤。ようやく光が見え始めたのは94年春のことだ。5月18日の近鉄戦で998日ぶりの白星を挙げ、7月5日のロッテ戦では1721日ぶりの完投勝利。17試合で3勝5敗、防御率4.82と復活への第一歩かに思えた。しかし、95年のダイエーは王貞治監督を招聘。秋山幸二工藤公康ら西武黄金時代を築いた選手たちを中心に据えたチームへと猛スピードで生まれ変わろうとしていた。変わりゆく組織の中で、キャンプからの出遅れで40人枠から漏れた加藤に登板チャンスは回ってこなかった。そうしてプロ12年目のオフに戦力外通告を受けるのだ。

「ダイエーを自由契約になった時には、これで野球も終わりだなとあきらめました。「よく泣く」って、言われるけど、あの時は本当に涙がでましたね。悔しい? 最後の1年は、肩の状態は何ともなかったんですから」(週刊ベースボール96年10月28日号)

広島で崖っぷちから復活


広島移籍1年目には9勝をマークした[左は三村監督]


 すでに30歳になり妻とふたりの子どもがいた。いつの時代も30歳というのは、夢や青春に区切りを付けるひとつの目安になる年齢だ。加藤も野球に見切りをつけ、アパレル業界への転職を真剣に考えたという。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない──。

 南海時代の元同僚、広島の井上祐二から誘いの電話が入るのだ。三村敏之監督が加藤に興味を持っているという。さっそく広島の入団テストを受けると、「ボールはいいね。変化球でストライクが取れるし、シュートもある。おもしろいと思うよ」と三村監督の評価も上々で、その場で採用が決まった。自宅マンションはまだローン返済の途中だったため簡単に手放すわけにもいかず、加藤は家族を福岡市内に残して、広島の寮での単身赴任生活を選択。「ダイエーを見返してやる」とカープ伝統の猛練習で若手に交じり汗を流し、文字通りイチからの再出発だ。前述の加藤の東スポ連載「酷道89号」によると、投手が打席に立つセ・リーグの野球に適応しようと、オフにはバッティング・センターに通い、金属バットを握りしめバント練習を繰り返したという。

 まさに崖っぷちの背番号12だったが、当時の広島の正捕手は南海時代の後輩、西山秀二が務める幸運もあった。96年5月14日には、前年日本一チームのヤクルトから実に2480日ぶりという完封勝利を記録している。三村監督は「せっかくのチャンスだから、ここまで来たら最後まで……」と続投指令で尻を叩き、川端順投手コーチは「絶対にカムバック賞ですよ」とマスコミにアピールし続けてくれた。実はこの試合の9回、古田敦也の打球が左手首に直撃して骨折していたが、加藤は以降もそれを隠してローテーションを守り続けた。テスト入団の自分が離脱したらそこで終わりだと知っていたのだ。96年の加藤は152.1回を投げ、7年ぶりの規定投球回に到達。25試合、9勝7敗、防御率3.78という成績でカムバック賞にも選ばれた。契約更改では、1700万円アップの年俸3200万円でサイン。すぐさま球場内の公衆電話から妻に喜びの電話をかけた。もちろん単身赴任の寂しさはあったが、「24時間、野球のことだけを考えていられる好条件ですから」と前向きにとらえて寮生活を続けた。

広島退団後はオリックス、近鉄[写真]でプレーしてユニフォームを脱いだ


 98年も8勝を挙げる。99年からはオリックスへ移籍。01年には12年ぶりの二ケタ勝利と13年ぶりの球宴出場でも話題に。さらには2002年にはFA権を行使して大阪近鉄へ。世紀をまたぎ、加藤はしぶとくプロの世界で生き続けた。

 若手時代は、度重なる怪我で同年代の出世レースに遅れを取ったが、30代後半を迎える頃にはすでにライバルの渡辺も津野も現役を引退していた。19歳トリオで、最後までマウンドに立ち続けたのは、加藤伸一だったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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