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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】「周りが加熱し過ぎると、僕はかえって冷める」新人記録を塗り替える打率.327、異端のヒットマシーン坪井智哉

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで──。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

イチローにそっくりな打撃フォーム


プロ1年目の坪井


「振り子打法ってよく言われますが、イチロー選手がそう言われることを嫌がるように、それはあくまでも周りの意見なんですよ。僕自身のイメージではそんなことはないんです」(週刊ベースボール1998年3月30日号)

 この新人らしからぬ発言の主は、坪井智哉である。1998年のセ・リーグは球史に残るハイレベルな新人王争いが展開されたが、春季キャンプから高橋由伸(巨人)や川上憲伸(中日)などドラフト1位の東京六大学のスター選手が注目を集める中、阪神4位指名の坪井も度々メディアで取り上げられた。中日やクラウンでプレーした元プロ野球選手の坪井新三郎を父に持ち、そのイチローにそっくりな打撃フォームと強気な発言が話題となったのだ。

「週刊宝石」1998年3月26日号の「’98ビッグマウス新人王は誰だ!」特集では、「いいぞ、イチロー2世」と声をかけた福本豊打撃コーチに対して、「そういう言い方は失礼ですよ。やめてください」と抗議をする肝っ玉ルーキーの様子が報じられている。1974年2月生まれの坪井は、1973年10月生まれのイチローとは同学年である。青学大3年時にそのバッティングフォームを参考にしたのは事実だが、記者からあまりにイチローのことばかり聞かれるので面倒くさくなって、「イチローの打法なんか参考にしたこともなければ、ビデオを観て研究したこともない」なんてうそぶいてみせた。のちにふたりは福本コーチの仲介もあり親交を深め、オフの自主トレをともにすることになるが、PL学園高、青山学院大、東芝とアマ球界のエリート街道を歩んできた坪井にも意地とプライドがあったのだ。

坪井が初めて表紙となった週刊ベースボール98年3月30日号


 キャンプで球団の新人唯一の一軍スタートを切ると、紅白戦初日に若手外野手の高波文一が発熱でリタイアしたことにより出番が回ってくる。坪井は紅白戦から実戦で9試合連続安打。その間、三振なし。社会人日本選手権で首位打者にも輝いた卓越したバットコントロールを首脳陣も高く評価し、独特な打撃フォームをいじらず本人に一任した。当時、5年連続Bクラスに低迷中。人気球団・阪神の数少ない明るい話題だった坪井は即戦力外野手と騒がれ、「週刊ベースボール」でも開幕直前の98年3月30日号で早くも表紙を飾っている。ドラフト4位ルーキーとしては異例の抜擢である。収録された単独インタビューでは、「マスコミに潰されないようにしたい」と意識的に周囲の喧噪とは距離を置いていることを明かしている。

「今まで通りやるだけですし。逆に変な意気込みなどもなかったです。自分のやってきたことを試合でやるだけですから。周りが勝手に騒ぎ立てることを気にしていてはバカらしいんで。周りは周り、自分は自分でやっています。そうしないと持たないんでね。いちいち新聞などが書くことに干渉したくないですし。だから新聞も最近は一切読みません」
 
 24歳の大人らしく坪井は、阪神の独特な環境でも自分のペースを崩さないことを意識した。酒もあまり飲まず、流行りのテレビゲームにも興味を示さない。虎風荘の自室ではCDに合わせて大声で歌ったり、ビデオを見たり、一人の時間を楽しんだ。

予定調和の受け答えを嫌う新世代


 開幕一軍入りを果たすも、98年の阪神外野陣は新庄剛志桧山進次郎、そして中日から移籍してきたアロンゾ・パウエルとレギュラーがほぼ固定されていたため、しばらくは代打起用が続く。社会人出身の自分には時間がないという焦りと危機感も当然ある。プロ初ヒットは6打席目、4月11日広島戦の代打出場で放った左翼線への二塁打だった。パウエルはコンディション面に不安を抱えており、次第に坪井が一番で起用されることが増えると、6月3日広島戦ではプロ初の猛打賞。鳴尾浜の虎の穴、タイガーデンの室内練習場では、連日深夜まで打撃練習に励む坪井の姿があった。

 7月4日の広島戦では、初回に左中間フェンス直撃のプロ第1号となる先頭打者ランニングホームラン。「1号が真芯でとらえた完璧なホームランだったら、“俺、結構すごいやん”と思ってしまう」なんて、らしいコメントを残す背番号32。7月31日、甲子園の巨人戦ではガルベスから右翼席へ2号アーチ。直後に降板を命じられ、怒りのガルベスが審判にボールを投げつける平成球史に残る大事件を起こすわけだが、チームメイトからは「おまえがガルベスを追い出したんだ」とからかわれたという。順調に安打を積み重ねる坪井は巨人のクリーンアップを打つ高橋由伸、オールスターでMVPを獲得した中日の川上憲伸、4月の月間MVPに輝いた広島のリリーバー小林幹英とのハイレベルな新人王争いにも、「ヨシノブ、ケンシン、カンエイの3人でやってくださいよ」とクールにかわしてみせた。

坪井[左]と同じく1年目から成績を残した小林[中]、川上[右]


「一番・右翼」に定着した夏場以降も打率3割台をキープすると、8月27日の横浜戦で規定打席に到達。打率.318でいきなりリーグ打率3位に顔を出す。8月29、30日の巨人戦では連夜の猛打賞。阪神では岡田彰布以来の新人100安打を記録して、打率.327にまで上昇する。この頃、にわかに史上初の新人首位打者の可能性も騒がれ出す。最下位に沈む阪神ファンのほとんど唯一の希望の光が、坪井のバットだったのだ。

 その渦中の「週刊ベースボール」98年9月28日号では、タイトルレース真っ只中の若虎一番星インタビューが掲載されるも、「最近規定打席に達したからといっても、それは、マラソンレースに途中から走り出したようなもの」とまたも坪井節。1998年当時、スポーツ界ではサッカーの中田英寿がメディアに対する不信感を強め、自らの公式ホームページで情報発信をする先駆者となったが、坪井もまた予定調和の受け答えを嫌う新世代のプロ野球選手だった。

「周りが加熱し過ぎると、僕の方はかえって冷めてくるんです。だから、テレビとか新聞ではあまり期待しないでくださいと言ってます。もともと周りの言うことは気にしない性格ですけど、何とか気にさせようとされるんでね。メディア的には首位打者や、新人王を狙いますよって言わせれば面白くなるから。つまんない言い方かもしれないけど、僕としては“勘弁してください”です」

引退後に口にした本音


最終的には1年目に135安打、打率.327を残した


 最終的に1年目の坪井は岡田の109安打、吉田義男の119安打を大きく塗り替える球団新人最多の年間135本のヒットを積み重ねる。123試合で打率.327、2本塁打、21打点、7盗塁。固め打ちも多く11度の猛打賞を記録。走力も武器で併殺打は年間を通して0だった。打撃ベストテンでは鈴木尚典(横浜)、前田智徳(広島)に次ぐリーグ3位にランクイン。2リーグ制後では1954年広岡達朗(巨人)の打率.314を大きく上回る、ルーキー最高打率となった。新人王こそ14勝を挙げた川上に譲ったものの、坪井は高橋や小林とともにセ・リーグ連盟特別表彰を受けた。

 そつなく淡々と結果を残していたように見えた背番号32だが、9月9日の中日戦前には報道陣に向かって「ホンマ、邪魔なんや」と吐き捨てたことが問題視されるなど、慣れない取材攻勢に心身ともに疲れ切っていた。1年目のシーズンを完走すると、「本当にやっと終わった。長かった」と半端ない疲労感が襲ってきたという。

 その後、坪井は2年目の99年も打率.304で2年連続3割をクリア。日本ハムへ移籍した2003年には自己最高の打率.330をマークする。11年にオリックスを戦力外になると、アメリカの独立リーグで40歳までプレーを続けた異端のヒットマシーン。若手時代はクールな男を演じていた裏で、心の奥底には燃えるような野球への情熱があった。現役引退を決断した2014年夏、「週刊ベースボール」14年9月8日号の惜別球人インタビューで、戦いを終えた坪井はこんな言葉を口にしている。

「僕は弱い人間なので、活字になったモノを目にしてしまうと、人より落ち込み度が高いと思う。自分を守るために本音は言いませんでした」

文=中溝康隆 写真=BBM
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