一番すごい打球を飛ばした選手は誰だったのか?
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は中西さんの素晴らしい記録に加え、
青田昇さんの言葉も交えた個所を抜粋し、紹介します。
記録を見ると、1952年のルーキーイヤーから1958年までの7年間で獲得した打撃3部門のタイトル(首位打者、本塁打王、打点王)は10。入団7年で比較すると、一本足打法の習得が入団4年目途中ではあったが、世界のホームラン王と言われた王貞治が7、大卒の
長嶋茂雄(ともに
巨人)ですら8である。
うちホームラン王は4年連続を含む5度。2冠は4度で、そのすべてが残り1部門は僅差の2位と、三冠王まであとわずかに迫った。当時、戦前の巨人・
中島治康以外に三冠王はおらず、もっと言えば、中島の三冠王は1年トータルではなく、1938年秋のもので(春秋の2シーズン制)、達成当時は特に話題にはならなかった。
この7年間は、その前の飛び過ぎたボール、「ラビットボール」(うさぎのように飛び跳ねる意)の反動もあってか、日本球界でもっともボールが飛ばなかった時代と重なる。
20本塁打台での本塁打王も多く、最多が1953年、中西の36本で、セ・リーグでの30本以上は1954年の洋松ロビンス(現
横浜DeNAベイスターズ)の青田昇、1955年の国鉄スワローズ(現
ヤクルト)の
町田行彦の31本。パ・リーグでも中西以外の30本塁打以上は1957年、南海・
野村克也の30本だけだ(中西は3回。ちなみに36本の1953年のパ・リーグは120試合制だった)。
ただ、中西にホームランへのこだわりはなかった。
「ライナーでセンターの左右を抜いていくアベレージヒッターのつもりで打ち続けていた。だいたいホームランというのは、打とうと思って打てるものではない。考えていたのは、いいタイミングで球をとらえ、スイングをシャープにすることだけや。向かってくる球の力を利用できるバットスピードがあってこそ、飛距離も出る。
わしを怪力で打っていたと思っている人もいるようだが、それも違う。腕だけで打っていたのでは飛ばんよ。足、腰の下半身の動きと上体がうまく連動し、合致しないと飛んでくれないんや」
高い放物線の軌道ではなかった。ボールの芯をたたきつぶすような強烈なスイングから放たれた低いライナーが、三段ロケットのようにぐんぐん浮かび上がり、はるか場外に消えた。
1967年の『週刊ベースボール』に掲載された記事で、ともに昭和の球界を代表するホームランバッター、青田(巨人ほか)と
大下弘(西鉄ほか)が参加した座談会がある。そのなかで、当時ホームランモンスターとも言われた巨人の王と大下の打撃を比較したやり取りがあった。
青田 現在の野球界で一番すごかったのは中西太がナンバーワンやろうね。これはだいたい話が合うわけやね。その次が王やろうというのが、ほとんどやけど、僕はポンちゃん(大下)やと思う。
司会 ホームランということで……。
青田 いや飛距離から見てです。遠くへ飛んだということではポンちゃんですよ。
大下 からかわないでくださいよ(笑)。
青田 今の王を見ているとすごいけど、僕はポンちゃんのほうが一枚上やと思うわ。今の球は飛ぶものね。
鈴木龍二(当時セ・リーグ会長) そうだ、昔は違ったね。
青田 戦後の球でポンちゃんが西宮の左中間の上段に2本打ち込んだけど、今、王でも上段へ打ち込むのはよっぽどや。あんな飛ばん球で、僕ら打っても入らんもの。だから僕は中西の次に……。中西は別やな(笑)。
鈴木 あれは別だ(笑)。
レジェンドたちの話にオチのように使われているのが面白い。