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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】「最も地味なドライチ」から新人20勝、涙の敬遠、流行語大賞も…“雑草魂”上原浩治

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どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

大学受験失敗で浪人を経験


巨人1年目の上原


「巨人史上最も地味なドラフト1位」、1年目のキャンプではそんな声すら聞こえてきた。

 1998年のドラフト1位で巨人に入団した大阪体育大学の上原浩治である。なお、この年の2位は近大の二岡智宏。ともに逆指名での入団だったが、甲子園のアイドルでも六大学のスターでもない、関西の大学から来た新人コンビはほとんど話題になることがなく、西武のゴールデンルーキー松坂大輔が注目を一身に集めていた。

 上原は異端のキャリアを歩んだ野球選手でもあった。東海大付属仰星高では建山義紀(元日本ハム)の控え投手で、3年時の大阪体育大の受験にも失敗してしまう。1994年春から浪人生活へ。地道に受験勉強に励みながら、身体がなまらないように週3回の筋トレを欠かさなかったが、大好きな野球はたまに近所の草野球に混じらせてもらう程度だった。

 浪人時代の筋トレ効果で球速が増し、一浪後に入学した大阪体育大の授業では、水泳や陸上などさまざまな競技を実技授業で経験できたのも、野球をプレーする土台となった。1年生の6月に出場した全日本大学選手権の準々決勝。東北福祉大のエース門倉健を目当てにプロのスカウトがつめかけていた大舞台で、その門倉と堂々と投げ合い延長で負け投手になるも、15奪三振を奪った無名の1年生にスカウト陣が騒然となる。実質的な上原浩治の全国デビューである。

大学時代に日本代表に選ばれ、インターコンチネンタルカップの優勝に貢献[右から2人目が上原、左端は高橋]


 阪神大学リーグでは特別賞2回、最優秀投手賞4回、リーグ新の1試合21奪三振と凄まじい数字を残し、学生日本代表にも選出。インターコンチネンタルカップの決勝では、151連勝中の最強キューバ代表相手に先発すると5回3分の1を1失点に抑えて、優勝の原動力となり、最優秀防御率投手賞、ベストナインを獲得した。なお、この大一番で先制3ランを放った全日本の四番が高橋由伸(慶大)である。生年月日が同じ75年4月3日のふたりは、のちにプロでもチームメイトとなる。

メジャーを視野も巨人へ


巨人へは逆指名で入団した[中央左から二岡、長嶋監督、上原]


 世界の舞台でも大活躍した上原には、メジャー各球団のスカウトも注目する。日米争奪戦となり一時はエンゼルス入りが決定的と見られていた。当時の心境を上原はプロ入り後に、「週刊文春」の人気コーナー「阿川佐和子のこの人に会いたい」でこう振り返っている。

「八、九割、向こうでした。四年生の夏休みには極秘でアメリカに行って、どこに住もうか家を見たりしてたから。エンゼルスの長谷川さんにもいろいろ案内してもらって、球場のマウンドに立たせてもらいました」(週刊文春1999年11月11日号)

 だが、スカウトから「100%の自信がなければ来るな」と言われ、土壇場で国内の巨人を逆指名するのだ。桑田真澄を尊敬していたが、少年時代は阪神ファン。それでも日本のメジャー球団は巨人だと自ら決断した。上原を巡り、就任したばかりの原辰徳野手総合コーチが「日本で2、3年やって栄冠を勝ち取ってから(メジャーに)行ってもいいじゃないか」とコメントしたことがスポーツ各紙で大きく報じられる騒ぎもあった。90年代はまだ多くの選手が巨人や長嶋茂雄監督への憧れを口にしたが、上原はドラフト10日後の「週刊ポスト」のインタビューで、「僕らの世代では、長嶋監督だからこうするとか、偶像視したりすることはないんです。(中略)特に巨人が好きだったということでもないんですよ」とあくまで逆指名の理由は寮や施設の環境面を重視してのことだと語った。

 入寮時に今年の目標を聞かれると、上原は「何とか活躍して“雑草魂”で流行語大賞を狙う」と答えるも、同日入寮の松坂フィーバーと比較され、あまりに影が薄いドラ1と揶揄するメディアもあった。迎えたプロ1年目の1999年春季キャンプは二軍スタート。記者とは距離を取りリップサービスもしない新人のマスコミ受けは決して良いものではなく、他球団の偵察スコアラーからはスタミナ不足や、ワインドアップの際に手首の角度で球種が読まれてしまうと酷評が相次いだ。なお、二岡も自主トレで右ふくらはぎを痛めて二軍からという新人コンビだったが、その印象と低評価は開幕後に覆ることになる。

 99年開幕3試合目の阪神戦(東京ドーム)にプロ初先発すると、6回2/3を投げて4安打4失点で敗戦投手に。プロ初勝利は自身2試合目、4月13日の広島戦で7回3安打6奪三振無失点の好投。チームの連敗を4で止めた強心臓ルーキーは、同じく6連敗後の5月7日のヤクルト戦(東京ドーム)、4連敗後の5月16日の横浜戦(東京ドーム)も勝ち、以降「連敗ストッパー」と呼ばれる勝負強さを見せる。ブルペンに入らず、登板と登板の間はランニングと遠投のみという独自の調整法もニュースとなり、毎週日曜日に登板することから“サンデー上原”が定着していく。勝利数と防御率でリーグトップを争う大活躍に、「ナイスピッチング二岡!」なんてご機嫌に名前を間違える長嶋監督であった。

オールスターでイチローと対決


オールスターではイチローと対戦して本塁打を浴びた


 オールスターでもセ投手部門のファン投票1位で選出されると、第1戦の先発マウンドへ。全セ上原と全パ松坂の新人先発対決は日本中の注目を集めた。初回、松井稼頭央(西武)、小坂誠(ロッテ)と二者連続三振を取った上原は打席にオリックスの背番号51を迎える。5年連続首位打者のイチローとの対決に、全セの捕手を務める古田敦也から、「松坂より目立つために三球三振を狙うぞ」と声を掛けられた。当時の様子を上原は自著でこう振り返る。

「2ボール2ストライク。古田さんの言う三球三振はかなわなかったが、三者三振が狙えるシチュエーションにまで持ってくることができた。5球目、古田さんのサインは、内角へのストレートだった。僕は、思わず首を振った。当てるのが怖い、と思ったのだ。そして投じた、5球目のフォークは、あっという間にセンターバックスクリーンへと飛んでいった」(OVER 結果と向き合う勇気/上原浩治/ワニブックス)

 イチローのその卓越した技術と完璧な当たりにマウンド上で上原は思わず笑みを浮かべたが、3イニングを投げてこの1失点のみ。オールスターの新人賞に輝き、パ・リーグの選手にサインや記念撮影を頼む初々しいルーキーの姿がそこにあった。背番号19は瞬く間にスターダムの階段を駆け上がっていく。雑誌「小学五年生」8月号、「きみはどっち派!? ライバル物語」特集で、鈴木あみvs宇多田ヒカル、中田英寿vs小野伸二と並び、松坂大輔vs上原浩治が取り上げられ、「小学六年生」10月号では、高橋由伸とともに「ヤングジャイアンツ」カラー特集記事が組まれた。TBSテレビ「情熱大陸」でも「黄金ルーキー・上原浩治」が放送された。当時の巨人戦は毎晩地上波テレビ中継されており、若きスターの由伸や上原は子どもたちの身近なヒーローでもあったのだ。巨人戦のシーズン平均視聴率が20%を超えたのは、この1999年が最後である。

後半戦も勝ち続け20勝到達


シーズン終盤、松井と本塁打王争いをしていたペタジーニを敬遠してマウンド上で涙


 後半戦もその勢いが衰えることはなく、5月30日の阪神戦から始まった連勝は、9月21日の阪神戦まで続き、新人記録の15連勝に伸ばす。初めて体験する長丁場のペナントレースで、心身ともに疲労は当然あった。口のまわりに発疹ができ、切れ痔にも悩まされる。それを周囲に隠してマウンドに上がり続けた。10月5日ヤクルト戦(神宮球場)では、“涙のペタジーニ敬遠事件”が物議を醸す。チームメイトの松井秀喜と僅差の本塁打王争いをしていたロベルト・ペタジーニに対して、7回裏に巨人ベンチは敬遠を指示。その直前の6回表に1本差で追う松井が勝負を避けられ四球で歩かされていたこともあり、これもシーズン終盤のよくある四球合戦の風景……と思いきや、マウンド上の上原は外角に大きく外す一球を投じた直後にマウンドを蹴り上げ、悔し涙を流したのだ。「週刊ベースボール」で、スポーツライターの青島健太から「あれは最初から、歩かせるというような指示があったんですか」と質問され、上原はその裏側を明かしている。

「1、2打席目も敬遠しろって言われていたんです。それを僕がいやだって言って、勝負しに行ったんです。自分のわがままを聞いてもらったんですけど、7回のあの場面は、その前に松井さんが2打席敬遠されていましたから。(中略)涙については、自然に出てきたんですよ。泣こうと思って泣いたわけじゃないんです。ただ、何かこみ上げてきてね」(週刊ベースボール1999年12月20日号)

「勝負をしたかった」と言い切った上原は、9回に2点を失うも2失点の完投勝利を挙げ、新人としては1980年の木田勇以来、19年ぶりの20勝に到達した。地味なドラ1と揶揄された男が、序盤は最下位に沈んだ長嶋巨人を2位に押し上げる救世主となったのだ。最終的に20勝4敗、防御率2.09、179奪三振という驚異的な成績で、最多勝、防御率、最多奪三振、最高勝率、新人王、そして沢村賞とあらゆるタイトルを独占してみせた。契約更改では5300万円増の推定6600万円でサイン。移動中の荷物を紙袋に入れて周囲から注意され、仕方がなくグッチのバッグを買った24歳が、ファッション誌「メンズクラブ」の表紙を飾った。さらに、開幕前の公約通りに“雑草魂”で流行語大賞を受賞。表彰式で“リベンジ”の松坂大輔、“ブッチホン”の小渕恵三首相と肩を並べて笑ってみせるのだ。

 振り返れば5年前、上原は近所のおっちゃん達と、草野球帰りにユニフォーム姿のまま吉野家で牛丼をかきこんだ。「今に見てろよ……」と逆襲を誓った19歳のあの日々が、“雑草魂”の原点でもある。上原の代名詞の「背番号19」は、そんな浪人生活を送った19歳の気持ちを忘れないために選んだ番号だという。

文=中溝康隆 写真=BBM

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