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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】もしロッテ入団拒否しなければ…史上最多8球団競合もプロ進まず近鉄でデビューした小池秀郎

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どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

「12球団の中で一番避けたい球団」


近鉄1年目の小池


「ドラフトっていうのはクジ。その、たかがクジで、大げさにいえば一生が決まってしまう。普通に会社に就職するのでも、まず学生側が会社訪問して話は始まるわけでしょう。逆指名っていうのは、そういうことだと思います」(週刊ベースボール1990年12月3日号)

 その男は、直後の1990(平成2)年ドラフト会議で、前年の野茂英雄と並ぶ史上最多タイの8球団から1位指名を受けた。アマ球界No.1サウスポーの小池秀郎(亜細亜大)である。西武広島、近鉄、日本ハム中日ヤクルトロッテ阪神の8球団が入札。事前に小池は「ヤクルト、西武、巨人。それ以外なら社会人の熊谷組へ」と希望球団を挙げていたが、当たりクジを引いたのは、無情にも「12球団の中で一番避けたい球団」と拒絶していたロッテだった――。

 ファミコンが大好きな青年は、中学時代はヤンチャでケンカっ早く、大学1年時にはパチンコにハマりすぎて同じ野球部の兄に激怒されるも、やがてそれは物怖じしないマウンド度胸と勝負勘へ繋がっていく。東都通算28勝、シーズン新記録の111奪三振。球速は140キロそこそこだったが、抜群のキレに加え、球持ちが良く打者はバットにすら満足に当たらなかった。

 ドラフト会議でロッテの松井静郎球団社長が当たりくじを引き当てた瞬間、金田正一監督は歓喜のバンザイ。対照的に亜細亜大学の三百番大教室に集まった学生たちからは悲鳴とブーイングが鳴り響く。その中心で表情がこわばり顔面蒼白となった小池は、「今は何も言えません……。すいません。あんなに断ったのに……ショックです」と言葉を絞り出し、その後は報道陣の隙を付いて外へ出て2日間雲隠れする。

1990年、ドラフト時の小池


 当日に決めた強行指名で交渉権を得たロッテ側は、同年に現役引退した村田兆治の「背番号29」に加えて、破格の契約金1億5000万円を用意すると報じられ、カネやんは週刊誌を通して「小池のピッチングには、金田と江夏の持っている“間”というものがあります。ウデの振りがよく、軸が崩れない」と熱烈なラブコールを送り続けた。

「もし、ワシのことがイヤだというのなら、ワシが監督をやめても構わんから入ってほしい。この金田、球界のために身を引きます。本気だよ。1日も早く、小池君にお目もじしたい」(週刊ポスト1990年12月1日号)

 だが、ロッテがついに初交渉にこぎつけた12月3日、小池はリポート用紙7枚に及ぶ入団拒否の声明文を報道陣の前で読み上げるのだ。当時はまだバブル好景気が続いており、大学生たちは、空前の売り手市場と言われた就活で一流企業へと続々と就職を決めていった。いわば、選ばれるのではなく、入社する側が自分に合う会社を選ぶのが当たり前の時代である。小池と同学年の長谷川滋利(立命館大)も「オリックス逆指名は就職活動のうち」とコメントを残しているように、彼らのドラフトに対する強気なスタンスには、好景気のど真ん中に大学生活を送った時代背景も大きく影響していた。

 そして12月12日、ロッテは小池の獲得断念を発表。これにより、12球団で最も不人気球団と揶揄されたロッテフロントは強い危機感を抱き、翌91年に6億4500万円を投じて広告キャンペーン「テレビじゃ見れない川崎劇場。」を大々的に展開。そのシーズン、球団史上初の観客動員100万人突破を達成すると、92年からは千葉へ本拠地移転。千葉ロッテマリーンズとして再出発を切る。ある意味、ロッテ球団にとっても、1990年冬の小池入団拒否はターニングポイントとなった。

社会人でプロの評価が急落


社会人では松下電器でプレー


 卒業後、ドラフト前に名前の挙がっていた企業ではなく、大阪の松下電器へ入社した小池は、日本生命の杉浦正則(同志社大)らとともに2年後のバルセロナ五輪での活躍が期待された。会社では福祉部に所属し、初任給は18万4000円。1億円超えの契約金間違いなしと言われた男の手取り額は14万円ほどだった。オープン戦の住友金属鹿島戦で社会人初登板も、2本塁打を浴び3回4失点。「小池は金属バットでは通用しない」なんて懐疑的な見方もあったが、6月にはいまだに語り継がれるピッチングを披露する。千葉マリンで行われた第2回日本・キューバ選手権第2戦、全日本チームの先発マウンドに上がった小池は、“世界最強”と称されるキューバ打線相手にフォークで三振の山を築く。終わってみれば、151球の6安打完封勝利。12個もの三振を奪った。小池は最強キューバを完封した史上初めての日本人投手となったのだ。

 キューバのフェンテス監督は、「コントロールが素晴らしく、配球も巧みで、世界でも通用する投手だ」と脱帽。この快挙を聞いたロッテの金田監督は、「ワシの目も確かやった」と逃した幻のドラ1の実力を認めた。だが、この試合が社会人時代の小池のピークだった。直後の都市対抗予選の日本生命戦では5回からリリーフ登板するも、4点差を追い付かれ、9回には左足のけいれんで降板。ヒザ内側副側靭帯損傷の重症である。以降は登板すればKOを繰り返し、さらには慢性的な左ヒジの痛みも抱え、バルセロナ五輪の代表入りも逃してしまう。

「社会人1年目はきつかった。練習試合で打たれたぐらいで新聞に書かれましたから。それぐらい、いいだろ、って。みなさんは僕に生意気な印象を持っていると思うんですけど、気が小さいところ、いっぱいあるんです。だから記事にもいちいち反応しちゃう」(Number764号)

 結局、小池は社会人2年目の都市対抗野球の大昭和製紙北海道戦でも、5回途中4失点でKOされてしまう。コントロールを気にするあまり球速は落ち、変化球のキレもなく痛打される。8球団が競合した2年前から、プロの評価は急落。それでも松井秀喜(星稜高)が注目を集めた1992年のドラフト会議で、小池の潜在能力を買った近鉄から単独1位指名を受ける。鈴木啓示新監督は「ワシが育てたる」と意欲を見せ、エースの野茂英雄と小池は同学年で、高校時代に練習試合で投げ合ったこともあったという。

偉大な過去の自分との戦い


プロ1年目は27試合に投げ、3勝に終わった


 こうして、ようやく史上最多タイの8球団から1位指名を受けた左腕の「プロ1年目」が2年遅れで幕を開けるわけだ。キャンプの特守で右足内転筋を痛め、紅白戦では3回3被弾7失点と炎上。社会人時代に悩まされた左ヒジ痛も再発して不安視されるも、オープン戦ではセ・リーグ球団相手に好投を続け、フレッシュマン賞に選出される。見事に逆転の開幕一軍入りを果たしたドラ1左腕だったが、自分の現状の力は冷静に見極めていた。

「同期のライバルなんて、オレはいないよ。杉山(西武)、武藤(ロッテ)、山原(日本ハム)がいるけど、向こうの3人は社会人での実績はオレより上だから、新人王争いで名前が上げられるのは当たり前。オレはその下のほうで、一馬身ぐらい離れてもいいから“小池ももしくは”って書かれるくらいでいい」(週刊ベースボール1993年3月1日号)

 開幕2戦目の日本ハム戦でリリーフデビューすると、ウインタースに逆転2ランを浴びるも淡々と投げ続け、「小池、大丈夫かと声をかけたら、何ともありませんと顔色ひとつ変えずに返事しよった。大した心臓やで」と鈴木監督を驚かせた肝っ玉ルーキー。4月15日には因縁のロッテ相手にリリーフ登板へ。敵地・千葉マリンでは罵声が飛び交い、スタンドに「くたばれ!! 小池」なんて大旗が振られる異様な雰囲気の中、背番号23は2イニングを投げ無失点の5三振を奪う快投を披露してみせた。高い奪三振率を誇るも、たまに先発起用されると一発病に泣いて試合中盤に力尽き、セットアッパーから敗戦処理まで中継ぎの便利屋のような起用法になっていく。

 6月20日の日本ハム戦ではロングリリーフで5回無失点に抑え、プロ初勝利。小池を先発で使い続ければ二桁近く勝てるという見方もあったが、左のリリーフが手薄なプルペン事情もあり、「投げさせてもらえるんだったら、どこでもいいんです」とロッテを入団拒否してワガママと叩かれた男が、チームのために黙々と腕を振った。この年、鈴木近鉄は6年ぶりのBクラスに沈み、小池のプロ1年目は27試合、3勝4敗2セーブ、防御率3.95という成績で終えた。

 その後、5年目の97年にはキャリアハイの15勝を挙げ最多勝を獲得した小池だが、通算51勝でプロ生活を終えた。もし大学卒業してすぐロッテへ入団していたら……という声も根強い。大学時代に一学年上の小池と対戦経験のある片岡篤史は、自身のYouTubeチャンネルで、「見たことのない球のキレ」と明かし、「もしロッテに入っていたら球界を代表するピッチャーになられたと思うよ」と絶賛している。プロ入りを拒否したことで、失われた2年。いわばドラフト後の小池秀郎の野球人生は、8球団競合という偉大な過去の自分との戦いでもあった。小池は、社会人1年目にこんな言葉を残している。

「“あの時の小池”は死んでしまったんです。今あるのは“社会人、松下電器の小池”。実績はゼロ。これから、いろいろな実績をまた積み上げていかなきゃいけない。まずは、さっきもいいましたけど、大学4年の春の状態に戻すこと。そこからが、本当のスタートになるんだと自分に言い聞かせています」(週刊ベースボール1991年4月29日号)

文=中溝康隆 写真=BBM

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