「今思うと、近鉄時代はほんと楽しかったね」(中西)
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は近鉄コーチ時代の話です(一部略)。
1985年から中西は再び単身赴任で近鉄のコーチとなった。
監督は現役時代のライバルである南海出身の
岡本伊三美だったが、近鉄は前年の1984年に亡くなった
三原脩が指揮を執っていた時代があり、1982年から2年間は西鉄時代の先輩・
関口清治が監督を務め、後輩で部屋子でもあった
仰木彬がずっとコーチでいた。
仰木は中西と同じ1969年限りで西鉄のコーチを退任し、翌1970年、三原が監督をしていた近鉄のコーチとなった。三原監督の退任時には、「自分も辞めます」と言ったが、三原に「甘えるな。一人の監督の下でしかコーチをできないなんてコーチ失格だ」と諭されたという。
結果的には、
西本幸雄をはじめ、また違ったタイプの指揮官の下でも経験を積み、指導者としての幅を広げることになる。
1988年、仰木が監督に昇格。中西は西鉄時代に監督、コーチの関係だった後輩の下に就く形となったが、やりにくさはまったくなかったという。
「そんなの気にしたこともない。チームが世代交代の時期だったし、仰木君と一緒に情熱を持って選手に教えた。真摯な気持ちで汗をかいて、恥をかいて、一生懸命やった。それが選手にも伝わる。今思うと、近鉄時代はほんと楽しかったね」
試合中もそうだ。重責もあって、本来の自分を表に出さず抑え込んでいた監督時代とは違う。喜怒哀楽を表に出し、選手とともに試合にのめり込んで熱くなった。
仰木監督とのコンビもまた絶妙だった。互いのことを知り尽くし、ウマが合ったこともあるが、穏やかな風貌ながら芯が強く、三原と同じく時に冷徹な判断もした仰木監督に対し、中西は豪傑ながら優しさと繊細さを秘め、選手に寄り添った。
両極端は大げさかもしれないが、まったく違う個性を持ち、さらに仰木が年下だったからこそ出来上がった名コンビと言えるだろう。
選手に対してだけではない。中西の気配りは仰木監督にも向けられた。
就任当時の仰木監督は、試合中、厳しい言葉を掛け、選手を萎縮させてしまうこともあった。それをカバーしたのが中西だ。例えば凡打して選手がうなだれてベンチに戻る。顔色が変わった仰木監督が口を開く前に中西が大きな声を出す。
「おお、いいスイングだ。次だ、次!」
下を向いていた選手が顔を上げる。言葉だけじゃない。そこには勇気をもらえる中西の笑顔がある。それを見て、仰木監督も冷静さを取り戻した。
「仰木君だって近鉄の監督になった最初のころは人前でしゃべれなかったんだ。それで球場からの帰りに、毎日、三原さんのノートを見せて、こういうときは、こういうことを話したほうがいいんじゃないかって話をした。でも不思議なことに成功すると変わるんだ。選手と同じよ。いつの間にか彼もテレビ朝日で女性アナウンサー(小宮悦子さん)と長いことしゃべる余裕ができた(笑)」
少しあとのインタビューになるが、1996年、
オリックスがリーグ連覇、さらに
巨人を破っての日本一を飾ったあと、西鉄時代の先輩・
豊田泰光との対談で、仰木監督はこう語っている。
「中西さんとは以心伝心でね。私が何も言わなくても選手との間に入ってすべてをフォローしてくれる。中西さんがチーム内の風通しをよくするための非常に大きなパイプでもあるわけです。本当に優しいですからね。愛情深いというか、そういう人だと思いますよ。ですから今のチームができたと言えます。
中西さんは選手の教え方とタイミング、そのツボを心得ているんですよ。選手のレベルに下りてきて話も聞くし、フォローもする。そのやり方というか、方法が実にうまいですね。大先輩には失礼ですが、私にはなくてはならん存在、一緒にやってもらわなければならない人です」