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【プロ1年目物語】「陰じゃない」野球殿堂入りの鉄腕・岩瀬仁紀、99年中日優勝の“真のMVP”

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どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

福留の進言で上位指名


中日1年目の岩瀬


「カラスの泣かない日はあっても、岩瀬の出ない日はない」

 かつてルーキーイヤーにそう称された鉄腕がいた。中日ドラゴンズの岩瀬仁紀である。愛知大時代は今でいう二刀流サウスポーだったが、巧打の外野手として知られ、愛知大学リーグの最多記録にあと1本と迫る通算124安打を放ち、計4度も外野手のベストナインに選出された。しかし、この届かなかった1本の壁に己の野手としての能力に見切りをつけ、社会人では大学3年時から復帰していた投手で勝負することを決意する。実は、愛知出身で熱烈な中日ファンの岩瀬は、大学4年時の秋にナゴヤ球場のマウンドに上がっている。入団テスト……ではなく、一般のファンに交じって試合前のスピードガンコンテストに出場したのである。

「中日ファンだったことが出場の理由の一つで、もう一つは誰もマークしたことがない140キロを出して球場をビックリさせてやるゾって。確か137キロをマークしたけど、その後肩をね。考えれば当たり前。ロクにウオームアップもせずに全力投球しましたから。あの時、完全に痛めていたら……」(週刊ベースボール1999年5月31日号)

 なんと、のちの殿堂入り左腕の投手生命は、スピードガンコンテストでイキりすぎて危うくプロ入り前に終わるところだった。大学通算打率.323の野手として評価するプロ球団もあったが、1997年春に社会人のNTT東海へ進み、森昌彦投手コーチから教わった高速スライダーが岩瀬の野球人生を変える。名門チーム相手に立て続けに完封勝利を挙げ、社会人屈指のサウスポーへと開花していくのだ。日本代表合宿で岩瀬と対戦した日本生命時代の福留孝介は強い衝撃を受け、「岩瀬さんがどうしても1位でと言うのなら、僕は2位でもかまいません」と中日スカウトの中田宗男氏に岩瀬のドラフト上位指名を提案したという。

「のちに代名詞となるスライダーもすごかったが、僕がそれ以上の魔球だと思っていたのはシュート。左打者の内角はもちろん、右打者の外角にストライクが取れるし、空振り、凡打と自在に操っていた。左投手が右打者の外角に、あれほど精度の高いシュートを投げるのは初めて見た」(もっと、もっとうまくなりたい はじまりはアイスクリーム/福留孝介/ベースボール・マガジン社)

福留[右]と昇竜館にて。部屋は福留が401号室、岩瀬が402号室


 当初、岩瀬の指名予定順位が「3位、あるいは4位」と聞き、福留は他のチームに獲られないためにも絶対に上位で獲得すべきだと進言した。そして、中田スカウトは松坂大輔(横浜高)の1位指名を希望する星野仙一監督を押し切り、逆指名枠で「1位福留、2位岩瀬」の獲得を決断するのだ。投手としての経験不足を指摘する声もあったが、アマ時代に使い減りしていない頑丈な肩は、岩瀬がプロの世界で生き残る上で大きな武器となる。

デビュー戦は一死も取れず降板


 24歳の即戦力左腕のデビュー戦は1999年4月2日の開幕戦だ。1点リードの6回二死二塁の場面でナゴヤドームのマウンドに上がった背番号13は、当時“ビッグ・レッド・マシン”と恐れられた広島前田智徳江藤智金本知憲に3連打を許し、一死も取れずに降板する。意外なようだが、通算1002登板の鉄腕のキャリアは失敗から始まったのだ。だが、強烈なプロの洗礼を浴びたことで、岩瀬は「あれでかえって思い切り投げられるようになった」と前を向き、山田久志投手コーチも「開幕戦(広島戦)で一死も取れず降板してから急きょ、フォームを変えたんだ」とのちの飛躍のきっかけとする。4月18日の巨人戦では、5回途中から3回3分の2を投げてプロ初勝利。プロ野球タイ記録の開幕11連勝で首位を走るチームにおいて、連投はもちろん、回またぎやロングリリーフとどんな起用法にも黙々とマウンドに上がり続け結果を残した。

星野監督[右]はルーキー・岩瀬をマウンドに送り続けた


 中日時代の星野監督は、これと思った新人投手を徹底的に使い続ける一面があった。新人王を獲得する投手を輩出する一方で、登板過多から故障して短命に終わる投手も少なくなかった。だが、岩瀬は壊れなかった。疲労を心配する声にも、「大学時代は野手との兼業。その意味で僕の肩はまだ全然疲れていませんよ」と受け流す。控えめな性格だったが、野球のこととなると自分のルーティンを貫く意志の強さを持っていた。新人でも遠慮せずにトレーナー室でマッサージを受け、遠征前は先発陣に交じって球場で走り込んだ。

 そんな激闘の日々の中でも、同期の福留と焼肉を食べに行き、帰り道は名古屋に来たばかりの福留の遊び心で市バスに乗った。岩瀬は路線も時間も調べ、寮まで3学年下の同期を連れて帰ってやった。車内の他の乗客も、まさか優勝争い真っ只中の中日の選手がバスに乗っているとは思わず、バックミラー越しに目が合った運転手だけが二人に気付き驚いた様子だったという。

チーム最多の65試合に登板


 ユニフォームを着ていなければどこにでもいる普通の物静かな青年が、いざマウンドに立つと獅子奮迅の活躍を見せる。チームの試合数の約半分に登板するフル回転ぶりで、並の新人ならば疲れが見え出す梅雨の時期から夏場にかけても、岩瀬は6月12日の横浜戦から8月13日の広島戦まで21試合連続の自責点ゼロ。腰痛持ちの抑えの宣銅烈に繋ぐセットアッパーは、星野監督に「ウチがいまこの位置にいるのは岩瀬のおかげだよ」とまで言わせる存在だった。先輩の山本昌は、その鉄腕の仕事ぶりを高く評価した。

「何がすごいかって、投球回が試合数を上回っていることでしょう。これはただのワンポイントではないことの証明ですよ。投球回とほぼ同じくらいの三振も取っているし、数字だけ見ても立派なもの」(週刊ベースボール2000年1月31日号)

 99年シーズン、岩瀬はチーム最多の65試合(74回3分の1)に投げ、73奪三振を記録した。どんな場面でも淡々と自分の仕事をまっとうする鉄腕ルーキーは、実は下戸で体が酒を受け付けない。だからこそ、山田投手コーチは安心して、シーズンを通してコンディションを維持できる岩瀬をマウンドへ送れたのだと明かした。

「岩瀬は酒が飲めないから、二日酔いの心配がない。連投できるので、リリーフ投手にうってつけだ」(土壇場のメンタル 1002試合、407セーブのストッパー/岩瀬仁紀/日本文芸社)

 実際、野球選手が酒の力を借りて眠りにつくのは珍しいことではない。体は疲れていても、試合後は気分が高揚してなかなか寝付くことができないからだ。岩瀬は遠征には使い慣れたマイ枕を持参。やがてお気に入りのアニメの「ワンピース」や「ドラゴンボール」のDVDをBGM代わりに付けっぱなしにして、なんとか眠りにつくリリーフ稼業のリアルがそこにはあった。

誰よりも同業者が評価


落合[左]とV旅行で訪れたオーストラリアで記念撮影


 65試合、10勝2敗1セーブ、防御率1.57。新人王こそ20勝を記録した上原浩治(巨人)が選出されたが、中日11年ぶりVの“陰のMVP”として岩瀬の名前を挙げる記者も多かった。地元での人気も急上昇してオフには、名古屋市交通局の地下鉄PRのCMに「伸びゆく(地下鉄の)顔ということで」と、福留とともに出演するなど、以降チームの新たな顔として定着していく。

 そして、新人時代から、誰よりも同業者から高く評価された男でもあった。1999年のシーズン終盤、週ベの「中継ぎ投手」特集でインタビューを受けた先輩リリーバーの落合英二は、「一番はウチの岩瀬ですよ。疲れているはずなのにそう言わず、黙々と投げている」とフル回転するルーキー左腕の名前を挙げて、強い口調でこう言い切った。

「今は正津とか、他の中継ぎ投手と、少しでも岩瀬の負担を減らそうと言い合っているんです。岩瀬が“陰のMVP”って良く言われていますけど、どうして陰なんですか。中継ぎだからですかね。陰じゃなく、真のMVPですよ」(週刊ベースボール1999年8月30日号)

文=中溝康隆 写真=BBM

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