第1号は四番打者
近鉄バファローズの助っ人といえば、筆頭に挙げられるのは
ラルフ・ブライアント、あるいは
タフィ・ローズだろう。ともに打って、打って、打ちまくる“いてまえ打線”を象徴する長距離砲。ブライアントは平成に入って、ローズは21世紀に入って、それぞれ初のリーグ優勝に貢献。まさにチームのニックネームどおり、猛牛と呼べる活躍を見せた助っ人たちだ。
そんな2人の助っ人に加えて、“いてまえ打線”のインパクト、バファローズというニックネームに上書きされているが、近鉄には長い低迷の歴史があった。近鉄がプロ野球に参加したのは2リーグ制となった1950年。このとき、新たに加入した球団は、かなり強引な手段で既存の球団から選手を引き抜いたのだが、唯一、紳士的な振る舞いを見せたのが「パールス」という愛くるしいニックネームを冠した近鉄だった。今回は50年から58年の「パールス」時代、総勢5人の助っ人たちに焦点を絞ってみたい。
第1号は52年に入団した外野手の
甲斐友治。当時はハワイ出身の日系人選手がプロ野球を席巻しており、この甲斐も同様だ。長打力は物足りなかったものの、安定感と勝負強さは当時の近鉄には貴重で、四番打者を務めることが多かった。翌53年には5月に右腕の
レン・カスパラビッチと捕手の
渡部満が、やはりハワイから入団。渡部はカスパラビッチの専属捕手といった位置づけで、カスパラビッチは来日して2連勝を飾ったが、援護に恵まれず通算6勝に終わっている。
55年8月に入団した外野手のビル・ピンカードは、2年目の56年にチームの1/3となる16本塁打を放つも55安打、打率.187。長打が30本を数え、安打の半分を超えるという極端なタイプだった。一方、その56年に入団した
ディック・パレニイは長距離砲の期待を受けた内野手だったが、結果的には守備の人。まさかの本塁打ゼロに終わっている。
他の球団に比べて圧倒的に戦力が整っていないのだから、勝ち進むのは難しい。近鉄の低迷は、ニックネームが59年から「バファロー」となってからも続くことになる。
写真=BBM