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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】「あの若さで完成品だ」広岡達朗監督に愛された“坊や” 高卒1年目から一軍抜擢の工藤公康

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

紆余曲折の末、西武入団


1982年1月、西武入団会見でのショット


「目標は作らないことにしています。作ればその人の真似になるし、それ以上にはなれないと思いますから。ボクは独特のものを身につけたい」(週刊ベースボール1982年2月1日号)

 まだあどけなさの残るドラフト6位ルーキーは、単独で臨んだ入団会見で堂々とそう口にしてみせた。西武ライオンズの工藤公康である。社会人志望から一転、プロ入りを決断した18歳に対して、厳しい質問が飛ぶことも予想されたが、工藤は時にユーモアを交えながら乗り切ってみせた。60人を超える報道陣を前に物怖じしない、その話術と度胸には、立ち会った坂井保之球団代表も「すっかり食われちゃったよ。完封だよ。すごいねえ。あんな高校生もいるんだなあ」なんて脱帽するほどだった。

 実は工藤には憧れの球団や好きな選手は特になく、野球は生きていくための手段にすぎなかった。厳しい父親から、高校に行きたければ野球で特待生になれと命じられていたのだ。日々の生活に余裕はなかったが、『週刊ベースボール』の投球フォーム分解写真を書店で立ち読みして、頭に叩き込んだ。名古屋電気高(現・愛工大名電)では、1981年夏の甲子園でノーヒットノーランを達成。チームをベスト4に導いたプロ注目の左腕だったが、社会人野球の熊谷組に就職内定しており、事前に挨拶のあったプロ9球団に対しては、配達証明郵便で「指名お断り」を送った。しかし、西武が1981年のドラフト会議で6位指名したのである。

高3時の夏の甲子園ではノーヒットノーランを達成した


 西武新監督の広岡達朗や裏に巨人の存在を感じたという球団代表の坂井ら、当時の関係者がそれぞれ「自分が指名を進言した」と振り返っており証言が食い違うが、それだけ工藤は誰もが欲しがる逸材だった。ドラフト直後の『週刊ベースボール』には、工藤が名電野球部の山本幸二(巨人2位)、中村稔(日本ハム3位)らの指名を祝福する写真と、「工藤は『2人が指名されてよかった』とプロ入りには関心なし」という記事が掲載されている。

 だが、1981年の年末には工藤の父親が根本陸夫管理部長の人柄に魅かれ、急転直下の西武入りを決断。しかし、12月29日付けの朝日新聞で「プロ入り拒否宣言をしていた工藤公康投手(名電工)が12月28日、西武入りを決定。契約金は破格の6000万円」と報じられるも、翌30日には「同選手の父親が『西武との契約白紙に』と撤回表明」という記事が出る。西武入りか、それとも熊谷組か。事態は二転三転した末に1982年1月8日に工藤親子が上京して熊谷組本社を訪れ、内定辞退を申し入れて、12日に東池袋の西武球団事務所で単独の入団発表に臨むのである。

 密約説から西武キャンプ地の設備を熊谷組が受注するといった会社間の取引きまで、さまざまな憶測が流れ、会見が荒れることを恐れた西武側は、親しいテレビ局のアナウンサーに代表質問を頼むなど警戒していたが、当の工藤はひるむ様子もなくあっけらかんと質問をさばききった。

物怖じしない18歳


 あいつはただものではない――。取材陣を驚かせた18歳には、直後の自主トレで初めて工藤の投球を見た広岡監督も、「あの若さで完成品だ」と絶賛する。当時の西武若手選手の間では、「田淵(田淵幸一)さんや東尾(東尾修)さんに話しかけられても『はい』か『いいえ』以外は言うな」という絶対的な上下関係があったが、工藤は報道陣にそのベテランの印象を聞かれ、「田淵さん? 面白い人ですね。誤解せんでくださいよ。明るい朗らかな人、という意味です、ハイ」と答えてみせた。

『週刊ベースボール』1982年4月6日号のモノクログラビアでは、「カーブ・アーチスト登場」と工藤を取り上げている。オープン戦初登板はあの異例の入団会見から69日目。ヤクルトの新外国人ラリー・ハーローを代名詞の大きなカーブで空振り三振に切って取り、オープン戦最終戦の大洋戦でも、ベテランの高木嘉一から空振り三振を奪い、「もっと投げたかった」と言ってのけた。広岡監督も「使えるメドがついた」と開幕一軍入りを示唆。広岡は工藤を“坊や″と呼び、可愛がった。

 プロ初登板は1982年4月10日の阪急戦、六回二死からのリリーフで前年31本塁打のウェイン・ケージから空振り三振を奪う上々のデビューを飾った。そして、22日の近鉄戦、工藤は強心臓ぶりで注目を集める。猛牛打線の主砲・栗橋茂の頭部に死球を当ててしまうが、工藤の「当たって砕けろです。人間、生きていく間には、いろいろありますよ。高校時代には10個ぐらいぶつけています」というコメントが相手チームから怒りを買ってしまうのだ。それでも恐れ知らずのルーキーは、南海戦ではベンチから、ベテランの門田博光に向かって「おーい、ちょっと太りすぎやぞ」なんて野次を飛ばす。実は後ろに座るノックバットを持った先輩選手から頭を小突かれ言わされていたというのが真相だが、まだ年功序列が根強い昭和球界に現れた異端のサウスポーは、短めのスポーツ刈りに大きな目で“カリメロ”の愛称でも知られた。当時のパ・リーグは前後期制で、工藤は前期12試合(8回3分の2)に登板して、防御率4.00。広岡は「坊やはワンポイントなら十分イケる。後期はかなり使えるかも」と期待を寄せた。

日本シリーズで登板も


 だが、当然その指揮官の特別扱いを面白くないと感じる選手も出てくる。出世が絡んだ男の嫉妬である。ただでさえ一番下っ端の高卒ルーキーは、雑用が多い。先輩たちのグラブやスパイクを磨き、それぞれの好みに合わせてコーヒーまで用意させられ、全体練習の準備に後片付け、さらに夜間練習の前にはボールを磨いた。スマホがない時代、寮の電話番も新人の仕事だ。その合間に些細なことで先輩から説教をされ、外出禁止を命じられる。

「おそらく、先輩達は、高校を出たばかりの名前も知らないようなペーペーが一軍で遠征にまで参加しているので、『何でこんなヤツがいるんだ』と思っていたのだろう。広岡監督から可愛がられて一年目から一軍に置いて貰ってはいたが、先輩達にしてみれば『そんなレベルではないだろ』と言う疑いの思いがあったはずだ。だから余計に厳しくされたような気がする」(探究力。人間「工藤公康」からのメッセージ/工藤公康/創英社)

1982年8月31日の日本ハム戦でプロ初勝利をマーク


 それでも、毎日練習があり、試合があった。グラウンドに立てば年齢なんて関係なかった。8月31日の日本ハム戦では、1対3の5回表からマウンドに上がると3回3分の1を無失点で抑え、待望のプロ初勝利。広岡監督も「坊や、よかったな」と喜んでみせた。1年目の最終成績は27登板すべてリリーフで1勝1敗、防御率3.41。28回3分の2で29奪三振を記録している。この年の西武は前期で初優勝。日本シリーズでは中日を4勝2敗でくだし、所沢移転4年目にして初の日本一に輝いた。第6戦の三番手でマウンドに上がった工藤は、1回無失点でシリーズ初登板の大役を果たした。だが、指揮官は工藤を可愛がっても、決して甘やかさなかった。ある年の正月明け、寮を訪れた広岡が「寮生が帰ってきていない。どういうことだ!」と激怒したことが新聞で報じられ、実家で束の間の休みを満喫中の工藤は、慌てて名古屋駅から新幹線に飛び乗り、所沢の寮へ戻ったという。後年、広岡は高卒ルーキーの工藤を一軍に抜擢した理由をこう明かしている。

1年目のシーズン後、西武園ゆうえんちでのオフショット


「入団してきた工藤に対する第一印象は『利口な男』だった。頭がいい。二軍に行かせたら自分より力が劣っていると感じた選手をバカにしかねない。そこで、一軍に置いて我々の目の届く範囲で管理した。私は工藤のことを『坊や』と呼んでいた。そのものずばり、『坊や』のようにかわいい顔をしていたからだ」(ベースボールマガジン2024年4月号/1982-1994工藤公康と西武ライオンズ)

 やがて“坊や″は、実働29年で通算224勝をあげる大投手へと成長していくことになる。

文=中溝康隆 写真=BBM
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