どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 ドラフトで8球団が競合

近鉄1年目の野茂
「みんなに、いわれましたよ。お前の投げ方、全部間違ってるやないかって(笑)。で、見せたれっていわれて、ブルペン行って見せたら、あんまりいわれなかったですけどね」(週刊ベースボール1990年8月6日号)
史上初めて1億円を超える契約金を手にしたルーキー、
野茂英雄の野球人生は、偏見との戦いだった。中学3年時に野球名門校のセレクションに落ち、社会人野球でも当初は「おまえみたいな奴がプロに行けるか」と会社の上司から説教をされた。体をひねり背中を打者に向けるトルネード投法では、負担が大きく1年間体がもたないという評論家の声もあった。新日鉄堺時代は日本代表に選ばれ、ソウル五輪の銀メダル獲得に貢献。1989年のドラフト会議で史上最多の8球団が競合して、最後に残った当たりクジを引いたのが近鉄の
仰木彬監督だった。入団の際、野茂が要求したのは金銭ではなく、ただひとつ「投球フォームを絶対に変えないこと」だけである。

ドラフトで史上最多の8球団が競合したが、仰木監督[左]がクジを引き当てた
「なんとなく気がついてみたら、このフォームになっていたという感じなんです。理由は、単に投げやすかったから、ということでしょうか。もし誰かに『フォームを直せ』と言われたとしても、僕は決して直さなかったと思います。仮に、僕のフォームが間違いであったとしても、“じゃあ、間違ったまま行こう″というのが、僕の考え方ですから」(僕のトルネード戦記/野茂英雄/集英社文庫)
我が道をいく21歳のルーキーは、初めて体験する1990年のオープン戦では神宮球場の
ヤクルト戦で伝家の宝刀フォークボールが冴え、11奪三振の完投勝利を挙げるなど順調に見えたが、好不調の波が激しく不安定な投球が続く。公式戦デビュー戦の4月10日の
西武戦では6回7安打7四死球の5失点で敗戦投手に。ただ、初回から無死満塁のピンチを招くも、四番・
清原和博には全て直球を投げ込み空振り三振に斬ってとる。記念すべきプロ初奪三振を奪った清原との力と力がぶつかり合う対決は、やがて「平成の名勝負」と呼ばれることになる。
2度目の先発の
オリックス戦では6回まで毎回の12奪三振も、終盤に崩れ7失点。野茂が先発すると四球が多く試合時間が長くなるため、外国人選手の
ジム・トレーバーは「彼が投げた試合が2時間台で終わったら、オレは彼が好きになるよ」なんて呆れてみせた。3戦目の
日本ハム戦は救援登板も4四死球で2失点。だが、迎えた4月29日のオリックス戦で圧巻の投球を披露する。敵地・西宮球場で球界屈指の破壊力を誇るブルーサンダー打線相手に、背番号11は日本タイ記録にして、
木田勇(日本ハム)の持つ新人記録を塗り替える17奪三振を奪い、仰木監督の55歳の誕生日にプロ初勝利で花を添えた。
スタミナ源は「よく食べ、寝る」こと

ファンからの公募で「トルネード投法」と名付けられた
5月に入ると野茂は凄まじいペースで三振を積み重ねる。5月8日のダイエー戦では延長10回にプロ初のサヨナラ負けを喫するも、先発全員から14奪三振。中4日でマウンドに上がった13日のオリックス戦では、12奪三振の1失点完投勝利を挙げた。近鉄がその投球フォーム名を公募すると約6000通も応募があり、“トルネード投法″に決定。6月には、早くもコニカの世界最小・最軽量カメラ「ビッグ・ミニ」の広告に抜擢され、野茂のフォークを投げる手形が前面に出るビジュアルが話題になった。
仰木監督もルーキーを宿敵・西武戦に積極的に起用する。チームが6連敗中の6月3日には立ち上がりに三者連続四球も、終わってみれば3安打3失点12奪三振で4勝目のトルネードを評して、「試合のことはどうでもエエ。それより本当に楽しませてくれるピッチャーや」とそのスター性を絶賛してみせた。6月12日のダイエー戦では、怪童・
尾崎行雄(東映)の80イニングを抜くスピードで早くもシーズン100奪三振を達成。野茂は前半戦だけで10勝に到達すると、
江夏豊(
阪神)が持つ日本記録の4試合連続2ケタ奪三振を二度もマークした。もちろんオールスター戦にも、パ・リーグ投手部門のファン投票トップで選出される。第2戦に先発すると、全セの四番・
落合博満(
中日)に高めの速球をとらえられ、左翼席へ逆転2ランを浴びるも、ベンチの仰木監督は楽しそうに笑っていた。
すでにペナントレースは西武が2位に10ゲーム差以上をつけて独走していたが、夏場も野茂の快進撃は止まらなかった。球宴明けの日本ハム戦、後半戦初登板は10奪三振の完投でハーラートップの
渡辺久信(西武)に1差に迫る11勝目。8月5日、夏休みの西武球場ではパ・リーグ新記録の年間13度目の二ケタ奪三振も、清原から史上最年少の150号アーチを浴びて負け投手に。王者西武の若き四番バッターは、22歳11ヶ月のメモリアルアーチを「野茂から打ってやろう」と決めていたという。

武器のフォークで三振を量産した
8月11日の
ロッテ戦では、初顔合わせの相手監督・
金田正一から「三振は、フォークでなくストレートで取るものだ」と挑発されるも、14度目の二ケタ奪三振で12勝目。1年目でパ・リーグ全球団から勝ち星を挙げた。寮の部屋では大好きなファミコンの『テトリス』に夢中になる若者が、いざマウンドに上がると豹変する。当初はファンレターが届くと、律儀にハガキにサインを書き送り返していたが、開幕してすぐ1週間に80通以上届くようになり全部読むのもひと苦労だ。それでも、野茂は夏バテとは無縁だった。近鉄OBの
佐々木恭介が寿司に連れて行くと、軽く64貫も平げたという。週刊ベースボールの佐々木との対談企画で、野茂は自身のスタミナ源をこう語る。
「とにかく仮に食べるものがまずくても食べなければというのがボクの考え。社会人時代、海外遠征によく行ったんですが、体調を崩したことは一度もありませんでした。それというのもよく食べ、そしてよく寝たからでしょう。ボクのスタミナ源はよく食べ、よく寝ることです」(週刊ベースボール1990年6月11日号)
投手八冠を獲得

トルネード投法からの剛球で球界を席巻した
平成のトルネード旋風は、昭和のあらゆる奪三振記録を塗り替えてみせた。8月24日のオリックス戦で、9回に2つの三振を奪い10奪三振の1失点完投勝利。三度目の挑戦で、5試合連続の二ケタ奪三振の日本新記録を達成する。9月20日ロッテ戦では1971年の
鈴木啓示(近鉄)以来、19年ぶりに250奪三振をクリア。その1週間後の西武戦では1968年の江夏に並ぶ、シーズン20度目の二桁奪三振で16勝目を挙げ、10月10日の西武戦で二桁奪三振試合「21」の日本新記録を樹立した。
ペナント最終盤はさすがに右肩や肘のハリを覚えたが、戦線離脱することはなく完走する。ルーキーイヤーのラスト登板は10月18日、シーズン最終戦のロッテ戦。藤井寺球場は前日の同カードより1万人も観客が増えたが、もちろんお目当てはトルネードの勇姿だった。9回表からマウンドに上がった野茂は、
堀幸一から空振り三振を奪い、5球でマウンドを降りる。287個目の奪三振にスタンドから大きな拍手が送られ、「K」の形に切り抜かれた紙吹雪が舞い、22歳のドクターKは帽子をとって一礼した。なお、三振奪取率10.99は、1968年の江夏が残した10.97を抜いてプロ野球新記録となった。
1990年の野茂英雄の最終成績は29試合で18勝8敗、防御率2.91。12球団最多の235回を投げ、21完投という堂々たる成績で終え、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、ベストナイン、新人王、MVP。さらにはこの年からパ・リーグの投手も対象となった沢村賞の投手八冠獲得という歴史的なルーキーイヤーとなった。自己流のフォームにこだわり、結果を残した野茂だったが、春先の乱調時にはひとつの決断をくだしていた。近鉄のコンディショニングコーチを務めた立花龍司は、プロ入り間もない頃の背番号11の様子をこう振り返る。
「最初は野茂もウエートはそんなに興味がなかったらしいんですけど、オープン戦で結構打ちこまれた。その頃です。野茂のほうから『体を作らないとプロでやっていけないと思うので、ウエートを徹底的にやります』と言ってきました」(ベースボールマガジン2023年7月号/1990-1994 野茂英雄と近鉄バファローズ)
意志の強さと野球への探究心が、野茂を突き動かした。やがて、その意志は海を渡り、当時は無謀とも言われた、メジャー・リーグでの挑戦へと繋がっていくことになる。
文=中溝康隆 写真=BBM