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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】「蒸発事件」「テレビCM抜擢」大阪商法で売り出された香川伸行 当時高卒新人最多本塁打もマーク

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

大相撲からラブコール


南海1年目の香川


「あのドカベンくんはアンコだけど、非常に敏しょうだし、腰から下がじつにしっかりしている。それに性格も明るいし、みんなに好かれるタイプだよ。朝汐みたいな男。ウチの部屋に欲しいね」(週刊ベースボール1979年4月30日号)

 浪商OBでもある大相撲の高田川親方は、後輩の香川伸行にラブコールを送った。「野球がダメになったらワシのところに来なさい」と声をかけたら、17歳の香川は笑っていたという。さらに二所ノ関親方も「ガチンと頭からぶちかましておいて、ハズ押しで速攻という型だね。ちょっぴり身長(170cm)が足りないけど、相撲の世界に入れたらおもしろいね」とドカベンくんの角界入りに期待する。プロ注目右腕の牛島和彦とバッテリーを組む体重100kg近い大型捕手は、高校球界No.1の人気者だった。春の選抜では準優勝、夏の甲子園では3試合連続アーチを放ちベスト4入り。甲子園通算5本塁打は当時の最多記録である。

浪商高では牛島[左]とバッテリーを組み、甲子園で注目を集めた


 その強烈なキャラクターと豪快なバッティングで注目を集め、週刊誌で「浪商のドカベンのヒーロー指数を測定する」(週刊サンケイ1979年8月23日号)といった特集記事が組まれるほどのタレント性だったが、プロの評価は「よく太っているけれど、身のこなしは実に軽いし、体のキレがシャープ」という肯定的なものから、「あの体ではとてもプロの練習についてこられない」と否定的な意見も多くあった。それでも、「大阪・鶴見橋、香川ドカベン様」と宛名が書かれたファンレターが日に20通も自宅に届く人気は、スタンドに閑古鳥が鳴き、DH制度のあるパ・リーグ球団からしたら魅力的だった。

「ドカベンを出せ」という投書


キャンプで汗を流す香川


 香川は巨人長嶋茂雄監督のファンだったが、セ・リーグでプレーすることへのこだわりは特になく、1979年のドラフト会議で南海ホークスから2位指名を受け、地元・大阪の球団へ。そのシーズン、12球団最低の46万6000人の観客動員数に終わった南海は、「ホークス子供の会」向けに大量のドカベングッズを作り、大阪球場の上空に香川の似顔絵を描いた大アドバルーンをあげて集客の目玉にしようと目論んだ。

 高知キャンプ中の2月8日には、「香川蒸発事件」が報じられる。背番号2のルーキーが練習に姿を現さず、報道陣が居場所を聞いても球団スタッフは「理由はいえません」の一点張り。午後4時に森本昌孝球団代表は「内臓の検査のために大阪に行かせました」と会見で発表するも、記者団からはそれなら早く情報をとブーイング。翌日のスポーツ各紙は一面でこの香川騒動を報じたが、あからさまな話題作りの演出に他球団フロントは、「やり過ぎ。大阪商法ですな」と呆れてみせた。

 開幕前にもかかわらず、なんとカシオ計算器の「カシオメロディ」テレビCMに先輩選手の藤原満とともに出演。香川にとって藤原は、中学時代に親戚に連れられて行ったパーティーで、「お前、柔道でもやってるんか」と声をかけられた顔見知りの先輩でもあった。撮影はキャンプイン前の1月15日に行われており、ドカベン・フィーバーは加熱する。CMの申し込みはすでに10社以上から問い合わせがあり、赤字続きで身売りの噂も囁かれていた南海ホークスにとって、待望の「全国区のスター香川」はチームの救世主だった。オープン戦では、中日ドラフト1位の牛島との浪商対決が実現。右飛に打ち取られるも、平日デーゲームのナゴヤ球場に1万3000人の観客を集めた。しかし、実戦になると外角をつかれてのボテボテのゴロが多く、「あのデカ腹では外角の球は打てない」と酷評される。開幕前に二軍落ちすると、球団には1日50通の「ドカベンを出せ」という投書が届き、「香川を見るために大阪球場のボックスシートを予約したのに、ドカベンを出さないのならカネを返せ」なんて怒りの声もあった。

ジュニアオールスターでMVP


 常に体重の質問が飛ぶ香川だったが、その打撃はやはり非凡なものがあり、ウエスタン・リーグの5月6日広島戦で大阪球場の左翼スタンドへ二軍36打席目の初アーチ。この日は4打数4安打の大当たりで、17日の阪急戦では代打満塁弾を放った。7月3日時点でリーグ3位の打率.353、5本塁打、26打点はチーム三冠王。ついに後期開幕直後に、営業部も待ちに待った一軍昇格へ。

ジュニアオールスターでは本塁打を放ち、MVPに輝いた


 7月8日の近鉄戦で4回からマスクをかぶり、5回表にはプロ初打席を迎えるが、香川は井本隆から日生球場の防球ネットに突き刺さる特大のプロ初アーチを叩き込む。高卒新人の初打席初アーチは20年ぶり史上3人目の快挙だった。さらに7月18日のジュニアオールスターでは、巨人の角盈男から左中間スタンドへ飛び込む130メートル弾を放ち、MVPに輝いた。球団は、この年22勝を挙げる日本ハムの“アメージング・ルーキー”こと木田勇と香川の対決をスポーツ紙に大々的に売り込むも、3打数ノーヒットに抑えられ、一度はインタビューをボイコットした香川を広報が説得して、報道陣の前に連れて行った。1980年の南海は前期5位、後期は最下位に低迷と優勝戦線から早々に脱落しており、待望のスター候補生・香川の起用はフロントの意向も強く反映されていた。そんな球団上層部のスタンスに普段は香川を可愛がったベテラン選手たちも、さすがにこう呆れたという。

「おえら方は明けても暮れてもドカベン、ドカベン……。チームより個人を大切にしている。チームの勝敗など、どこ吹く風。ドカベンに球団挙げてうつつを抜かしていていいのやろか」(週刊ベースボール1980年8月18日号)

1年に放った本塁打は8本


話題だけでなく、1年目から非凡な打撃センスを見せた


 だが、香川は決して人気だけの選手ではなかった。プロの水に慣れた9月以降に6本塁打を放ち、10月5日の近鉄戦では自身初の1試合2発を記録する。50試合で打率.282、8本塁打、25打点、OPS.834という打撃成績を残し、先輩投手たちから意外性のあるリード面も評価されるなど、上々のプロ1年目となった。西武野村克也の引退セレモニーでは、古巣・南海を代表して27歳下の香川が花束を渡す大役を務めている。

「木田(勇)さんがいなかったら、ボクにもチャンスがあったかもね。あの人は社会人の新人王。そしてボクは高校出の新人王。こんなんがあったらええのになあ」と香川は冗談めかしてルーキーイヤーを振り返った。

 全日程終了後、すぐに日生病院で人間ドック入り。オフの減量大作戦が話題になるが、「ボクは、痩せては野球ができんのや。自分の体は自分が一番よく知っている」と食事制限には不満げに物言い。人懐っこい香川は下戸で酒をまったく飲まなかったが、当時の好景気も後押ししてスポンサー筋から接待の食事の誘いが絶えなかったという。捕手だけでなく三塁にも挑戦したキャリア中盤以降は明らかに太りすぎだったが、1980年代の南海には看板選手の門田博光がいたため、香川のDH起用もできず、ダイエーホークス元年の1989年限りで10年間の現役生活に別れを告げた。

 714試合に出場して、通算460安打、78本塁打、270打点。記録より、記憶に残る人気選手として語り継がれるドカベンだが、香川が1年目に放った8本塁打は、1986年の清原和博(西武)に更新されるまで、ドラフト制後の高卒ルーキー最多本塁打記録でもあった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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