屈辱の最下位のなかでまいた種

書籍表紙
1936年1月23日、大阪阪急野球協会(阪急軍)が発足。同年7球団でスタートした日本プロ野球初の公式戦におけるオリジナルメンバーである。ただし、その歩みは決して順風満帆ではなかった。
1リーグ時代は一度も優勝がなく、戦後はBクラスが定位置となった。1950年の2リーグ分立後も低迷は続き、観客動員もリーグ最下位がほとんどだった。
辛うじて免れていた最下位になったのが、1963年だ。指揮を執ったのが、新監督の
西本幸雄である。同年西本に抜てきされ、47試合に投げ、6勝18敗だったのが23歳の若きアンダースロー、
足立光宏だ。24歳の
石井茂雄とともに、負けても負けても使われ続け、最下位の屈辱のなかで西本がまいた種とも言える。
西本監督が阪急を率いた1963年から1973年までの11年間を綴る書籍「阪急ブレーブス 闘将の黄金時代 西本幸雄と勇者たちの群像」から、足立の1963年までの歩みを抜粋して紹介する(不定期連載の1回目)。
◎
足立光宏には兵庫・甲子園口駅前の喫茶店で話を聞いた。
「小さいころは
阪神ファンでしたが、プロを目標にしていたわけじゃないですよ」
ゆっくりと優しく話す人だ。
大阪府出身。小学生で野球を始め、すぐ投手になった。最初はオーバースローだったが、中学3年でヒジを痛めたことが転機となる。
「一応、治ったけど、上から投げると痛みがあったんで、1年くらいかけて、ここなら痛くないなというところを見つけたんですよ。それがサイドスローくらいの腕の高さでした。
そこからだんだん下げていった。僕が180センチくらいあったら、また上からに戻したかもしれんけど、背は、あんまり高くなかったからね。こっちのほうがいいかなと思った。誰かに教わったわけじゃないですよ。すべて我流。昔はみんなそうです」
大阪西高時代は無名の存在だったが、大丸入社後に頭角を現し、1959年の阪急入りだった。
「高卒だったし、大丸で定年までというより、親が商売をしていたんで、そっちを継ぐつもりでいました。そしたら阪急から声が掛かって、契約金も結構高かったんで、親父も『行け。俺の小さな商売を継ぐよりよっぽどいいから』と言っていました」
1、2年目の勝敗はいずれも4勝7敗だ。
「当時は真っすぐ中心。球は速かったはずですよ。今みたいにスピードガンがないから分からんけどね。最初はヨネカジさん(
米田哲也、
梶本隆夫)もいるし、先発はあまりなくて、敗戦処理みたいな使われ方も多かった。でも、焦りはなかったです。まあ、ええわ。いつかなんとかなるやろって」
わずか1勝に終わった1961年を挟み、プロ4年目となる1962年5月24日の南海戦(西宮)が出世試合となる。当時の日本記録を更新する1試合17奪三振での完封勝利だった。
「シーズン初めての先発だったと思います。それまではまったくダメで、勝ち負けもなかったのに、なぜか、あの日は調子よくてね」
実際、相手の南海・
蔭山和夫コーチは、試合前に足立の先発を知り「なめとるな、ほんまに」と憤った。
そのあとも、ほぼリリーフ起用で規定投球回には届いていないが、8勝を挙げ、防御率は1.96だった。
迎えた1963年が西本監督初年度となる。
「西本さんはピッチャーにはあまり言わない。でも、練習で手を抜いたりすると怖かったですよ。見てないようで見ていてね。だからこっちも野球に対して、深くマジメに取り組むようになっていったというのかな。あの年は、西本さんが僕を一人前の投手にしようと、負けても負けても先発で使ってくれた。特別な言葉を掛けてもらったわけやないけど、使ってもらっていると、不安が薄らいでくるんですよ。打たれたらすぐ交代だったり、次に使ってもらえなかったりじゃなくてね。おどおどしなくなって、自然と勝てるようになる。周りからは『お前はいいな、使ってもらえて』と、ずいぶん言われましたけどね」
(続く)