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阪急ブレーブス 闘将の黄金時代

「もしかしたら巨人は1位もあるかなって思っていた」山田久志の入団秘話/阪急ブレーブス 闘将の黄金時代

 

アンダースローにして急成長


書籍表紙


 1936年1月23日、大阪阪急野球協会(阪急軍)が発足。同年7球団でスタートした日本プロ野球初の公式戦におけるオリジナルメンバーである。

 ただし、その歩みは決して順風満帆ではなかった。1リーグ時代は一度も優勝はなく、戦後はBクラスが定位置となった。1950年の2リーグ分立後も低迷は続き、観客動員もリーグ最下位がほとんどだった。

 辛うじて免れていた最下位になったのが、1963年だ。指揮を執ったのが、新監督の西本幸雄である。 西本監督が阪急を率い、まさにどん底から黄金時代を築き上げた11年間を綴る書籍「阪急ブレーブス 闘将の黄金時代 西本幸雄と勇者たちの群像」から、福本豊加藤秀司(加藤英司)とともに昭和44年(1969年)入団組の一人、山田久志の入団前の逸話を抜粋して紹介する(複数回の7回目)。



 福本、加藤の2人以上に苦しんだのが、1位指名された山田久志だ。前半戦は一軍昇格どころか、契約もしていなかった。

 秋田県生まれ。能代高では2年夏までは三塁手だったが、自身の悪送球でサヨナラ負けした試合のあと、ショックで練習に行けなくなった。同級生が迎えに来て、監督に退部を告げるつもりで会いに行くと「投手になれ」と言われ、これが転機になる。

 気持ちを切り替え、再チャレンジ。当初は普通のオーバースローだったが、ノーコンに苦しみ、克服するために先輩を参考にサイドスローで投げ始めた。

 卒業後、岩手県釜石市の富士鐵釜石に入社。中谷正人監督に「もっと腕を下げてみろ」と言われ、アンダースローになって急成長する。1967年の都市対抗の好投で、同年秋のドラフト会議では西鉄に11位で指名された。自身は入団しようと思ったが、「そんなにすぐ辞めたら、せっかく獲ってくれた会社に申し訳ない」と母親に反対され断った。

 翌年1968年秋のドラフトでは、会社の了解ももらい、上位指名なら受けるつもりでいた。

「阪急からは指名しますという、あいさつもなかったな。ドラフト当日に突然だったね。

 あのときは巨人とサンケイ(アトムズ)と南海が指名したいと言ってきたけど、どこも1位とは言ってくれなかった。でも、もしかしたら巨人は1位もあるかなって思っていた。

 巨人の本命が田淵幸一さんだったのよ。スカウトの前川八郎さんが釜石に来て、『田淵君が外れたら山田君に1位で行くかもしれません』と言ってくれたんだ。あとから聞いたら、いろいろな人に同じこと言ってたらしいけどね。

 日本シリーズで阪急の試合は見たけど、選手はまったく分からなかった。阪急がどこにあって、どういうチームかも正直知らなかった。そもそも、秋田も釜石も巨人の試合しかやらないから、パ・リーグの球団は、みんな同じだったけどね」

 当時のドラフトは事前のクジで指名順を決め、競合はない。田淵は巨人希望を明言していたが、先に他球団が指名した場合、巨人は明大・星野仙一指名を基本線として考えていたと言われる。

 しかし、田淵を阪神が強行指名したあと、巨人が1位指名したのは、星野でも山田でもなく、武相高の投手・島野修だった。

(続く)
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