どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 玄人好みのプレー
ドラフト5位指名――。それが現在、WBCで日本代表監督を務める
井端弘和のプロ入り時の評価だった。
1997年のドラフト会議当日、指名されたら会見があるため、井端が亜細亜大のブレザーを着て家を出ようとしたら、その理由を聞いた両親は「ないない」と吹き出したという。この年の目玉選手は、
高橋由伸(慶大)や
川上憲伸(明治大)らで、彼らはすでに逆指名で入団する球団が決まっていた。それでも、中日スカウトの
水谷啓昭は早くから玄人好みの井端を評価していた。同じくスカウトの
中田宗男は、水谷と神宮球場でそのプレーを確認したときの印象をこう振り返っている。
「井端はセカンドだったが、6-4-3のゲッツーでセカンドベースに入るタイミング、そして一塁への慌てない送球など、一見普通に見えるプレーの端々に抜群のセンスを感じさせた。二遊間の深い位置からの一塁送球にも肩の強さがうかがえたし、ショートが危なっかしいプレーをすれば、それを平気な顔をしてぱっとカバーをする。バッティングは追い込まれてからのアウトコースギリギリのボールもきっちりカットした。」(星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録/中田宗男/カンゼン)

1997年のドラフトで5位指名され入団。井端は左から5番目で左隣は1位の川上だ
中日スカウト陣は、身長173cmと小柄な内野手の野球センスの高さに驚かされるが、実は井端は中学時代までは投手だった。シニアリーグで対戦した相手監督に「キミは高校に進んだら内野手になった方がいい」と助言を貰ったのだ。港東ムースを率いる
野村克也からの言葉である。さらに野村からの誘いもあり、堀越高校へ進学した。野村の息子・克則が野球部の2学年上の先輩となる。
高校時代は一軒家での寮生活を送ったが、井端は意外なところで器用さを見せる。寮の料理当番である。それまで料理経験はほとんどなかったが、献立から考え食材を仕入れて、調理する。例えばハンバーグは惣菜を買うのではなく、挽き肉から選ぶため、練習を早めに抜けて夕食の準備をしたという。抜群に味がいいため、上級生になっても井端が食事を作ることが多かった。亜細亜大学へ進学すると、二塁手として東都大学リーグのベストナインに3季連続で選出されるまでに成長し、課題の打撃はチーム練習の他に1日500スイングを自らに課した。そうして辿り着いたプロの世界だった。
身体の芯から鍛え直す覚悟

二軍では守備を磨いた。写真は二軍春季キャンプ
1998年春、ルーキーの井端弘和は初めてのキャンプを迎えて「野球ができて、お金までもらえる。こんな幸せなことないです」と初々しいコメントを残すも、キャンプインしてすぐ大学時代に半月板を手術した膝を再び痛めてしまう。当時の中日一軍のショートは
久慈照嘉や
リー・ジョンボムが争い、二軍のレギュラー遊撃手には実績充分の
鳥越裕介がいた。だが、井端は置かれた状況に心折れるのではなく、ドラフト5位入団の自分を客観的に見ていた。与えられた背番号は48で、二軍でも出番は限られる。現状の自分は首脳陣から戦力の数に入れてもらえていない。「これはもう一度、身体の芯から鍛え直さないと通用しないな」と覚悟を決める。
「僕の上に内野手のライバルが、6、7人いた。レギュラーを奪うためには、一人ずつ、けちらしていかねばならない。『これは、1年や2年、いや3年でも無理かな』と思った。一軍のレギュラーという遠くの夢を描く前に、目の前の現実をひとつずつクリアしていかねばならなかった。まずは二軍で試合に出ること。そして、二軍でレギュラーポジションを奪うこと。まずその座を奪わない限り一軍には行けない」(「勝負強さ」/井端弘和/角川oneテーマ21)
シーズン終盤に11試合連続スタメン
井端は自分の武器は、「守備」だと自覚していた。ならば二軍でさらに鍛えて、守備のスペシャリストとしてプロの世界で生きようと決意するのだ。ウエスタン・リーグでは高校以来のショートのポジションで起用され、一軍には中日が首位・横浜と優勝争いを繰り広げるシーズン終盤、1998年9月7日に初めて呼ばれた。翌8日の
阪神戦で、井端は福田功コーチから「アタマからいくから」と先発出場を告げられる。「七番・遊撃」で初めてのスタメン出場も、第1打席は極度の緊張でバッターボックスに立つ足が震えた。

ナゴヤドームで行われた9月8日の阪神戦でプロ初安打、初打点をマーク
それでも3回裏、二死満塁の大チャンスで回ってきたプロ2打席目で、センター前へ2点タイムリーを放つ。プロ初安打、初打点の大仕事に、星野監督も「若いの(井端)が打たなかったら、負けていた。大したヤツや。いい仕事をした」とベタ褒め。試合後、ナゴヤドームのお立ち台に呼ばれた井端は「必ず横浜をつかまえます」と堂々と口にする。16日の
ヤクルト戦にも、「二番・遊撃」で先発出場すると、1打席目の四球から始まり、安打、四球、四球、安打と2安打3四球で全打席出塁。星野監督はドラフト5位ルーキーの働きを絶賛した。
「今日は井端や。よう野球を知っとる。1球目から2ストライク取られたようなバッティングをしとるから、本当に2ストライクなっても慌てん。大したもんだよ」(週刊ベースボール1998年10月12日号)
前年のナゴヤドーム開業元年は最下位に沈み、「ドーム野球にはホームランはいらない。つなぎや。つないでつないで点を取るんだ」と口にしていた星野監督は、勝負所の9月に実戦派ルーキーを11試合連続スタメンで起用する。井端のプロ1年目の成績は、18試合で打率.245、2打点、4盗塁。守備位置は遊撃で12試合、二塁で6試合というものだった。
ヤクルト戦の5打席連続出塁で勝利の立役者となった夜、敵将の野村克也監督は、相手の背番号48の働きに、「何を怖がっとんじゃ。昨日、今日出てきた新人なんか、見下ろしゃいいのにフォアボールなんて」とボヤいてみせた。それはシニアリーグ時代、井端に内野手転向のきっかけを与えてくれた名将への強烈な恩返しでもあった。
(参考資料)
『アライバの鉄則 史上最高コンビの守備・攻撃論&プレー実践法・野球道・珠玉の対談』(井端弘和・
荒木雅博/廣済堂)
『守備の力』(井端弘和/光文社新書)
文=中溝康隆 写真=BBM