“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 「古田のチーム」へと変貌する中で

巨人時代の広澤
「まわりの人は、ボクがFAしたのは、古田に年俸を抜かれたから、ナンバーワンの座を奪われたからだといっているようですね。そりゃ、10年間、築いてきたものが、たった4年のキャリアしかない選手に抜かれるんですよ。せめて、古田と同じ額の年俸を示してほしかった」(週刊ポスト1994年11月25日号)
ヤクルトの
広澤克実は、自身二度目の打点王を獲得した1993年オフの契約更改の席で、同僚捕手の
古田敦也より低い年俸提示を受けたために一度は保留する。最終的に球団社長から古田と同額と説明された1億8000万円でサインしたが、実際は後輩の古田の方が500万円多かったことがのちに判明。広澤は球団への不信感を高めていく。1993年の古田はセ・リーグMVPに輝き、野村ヤクルト初の日本一の原動力となるなど、ヤクルトが完全に「古田のチーム」へと変貌しようとしていた時期だ。

ヤクルトでは主砲として10年間プレーした
だが、四番打者の広澤にも意地があった。明治大学から1984年のドラフトでヤクルトに1位指名され、在籍10年で6度の全試合出場。“平成の鉄人”と呼ばれた男は、FA権を取得した1994年シーズンも130試合フル出場で打率.271、26本塁打、73打点、OPS.823という成績を残していた。
その去就が注目される中、1994年10月29日、巨人と
西武が戦う日本シリーズ第6戦の日本テレビ中継ゲスト解説で出演すると、広澤は巨人先発の
槙原寛己が振りかぶるたび「速球です」「フォークです」と球種を言い当てる。本人は「放送ブースで見ているから(クセが)分かるんですかねえ」なんてトボけたが、移籍が決まったわけでもないのに、チーム内の攻略法をテレビで話した行為が物議を醸す。結局、11月8日にヤクルトとの二度目の交渉後、「慰留されましたが、条件提示などはありませんでした」と決裂し、FA宣言へ。将来の監督候補と目された広澤のスワローズ生活は、事実上終わりを告げた。
「トラちゃん、おいでよ」
32歳の元打点王に複数球団が接触してきたが、巨人から東京・赤坂の料亭に招かれると、なんと座敷の奥には長嶋茂雄監督がひとりで座っていた。茨城出身の広澤は、子どもの頃にテレビで見ていたスーパースターとのふたりきりの食事に緊張のあまり、何を食べたのかも覚えていないという。ただ、帰り際に長嶋監督から、「トラちゃん、(巨人へ)おいでよ」と声をかけられた。
「思わず『はい』と言ってしまいました。『考えさせてください』と言う間もなくて……(苦笑)。32歳になった“野球バカ”は、後先考えることなく即答しました。でも、同じ状況で『ノー』と言える人はいますか? 長嶋さんにあこがれて野球を始めて、その張本人から『おいでよ』と言われて。断る理由が見つからなかったのです」(ベースボールマガジン2025年8月号 1993-2001 第2次長嶋巨人、ドラマチック伝説)

同じくFA移籍の川口和久[左]、長嶋監督[中]と入団会見
ヤクルトの
野村克也監督からは、「巨人の体質を考えたら、合わないから行かないほうがいい」と慰留されたが、広澤は巨人移籍を決断するのだ。さらに広澤とクリーンアップを組んだ、1992年セ・リーグMVPの
ジャック・ハウエルも巨人移籍を表明。野村監督は主軸の相次ぐライバル球団への流出に、マスコミを通して「あの2人は目指している野球から逆行する存在だった。悪くいえば劣等生。だから惜しい選手を失ったとは思わない」(週刊ベースボール1995年4月24日号)と挑発した。そのヤクルトと対峙する1995年開幕戦で、巨人のスタメン野手に生え抜き選手は
川相昌弘、
岡崎郁、
松井秀喜の3名のみ。「四番・一塁」の
落合博満がいたため、広澤は外野へ回り、「六番・左翼」で出場した。なお、空前の33億円補強を行なった長嶋巨人だが、総額8億円で獲得したツインズの四番打者
シェーン・マックと広澤は、ロサンゼルス五輪の野球決勝戦を戦った間柄で、前年12月にハワイで偶然顔を合わせ、広澤がマックに対して「巨人で一緒にやろうよ」と声をかけたという。
思うような結果を残せず
しかし、新天地で広澤は開幕から打撃不振に喘いだ。ヤクルト時代からスロースターターで、前年の4月も打率.197だったが、全試合が地上波テレビで中継される巨人ではそれもマスコミの恰好のネタとなる。皮肉にも、ヤクルトが広澤の代役で獲得した
トーマス・オマリーの大活躍もあり、ペナントレース序盤から首位を快走する。広澤は落合が打撲で欠場した5月3日の
阪神戦で、第61代四番打者を経験したが、7月12日のヤクルト戦では、慣れない札幌円山球場の試合前練習で、外野で打球を追った際にアルバイトの学生と激突。後半戦は、このときのムチ打ち症に苦しめられた。終わってみれば、新しい環境に戸惑い、巨人1年目は自己ワーストの打率.240に終わり、20本塁打、72打点、OPS.758。対ヤクルト戦は過剰に意識するあまり、打率.177と抑え込まれた。9月30日、神宮球場で古巣ヤクルトに敗れ、目の前で野村監督の胴上げを見ることになった広澤は、「今日は勘弁してください……」と足早に球場をあとにした。
「広澤は、来年もこのままの守備だと厳しいね。来年は守備重視の野球をやるわけだし、相当な努力が必要でしょう。今季は(連続試合出場の)記録を意識した起用法もあったが、来年は妥協しませんよ」(週刊ベースボール1995年11月13日号)
長嶋監督のそんな発言にも危機感を覚えた広澤は、95年オフに東ドイツ出身のトレーナー、ホルスト・ギュンツェル氏と個人契約してプロ12年目の肉体改造に着手する。1996年は、正月返上でトレーニングに励み、克己から「克」への登録名変更を申し出、「今年の目標は、三冠王を取ることです。今年は遠慮せずに何でもハッキリ言います」と宣言した勝負のシーズンだったが、オープン戦でアクシデントに見舞われる。3月22日の西武戦で
石井丈裕から右手首に死球を受けるのだ。当初は打撲の診断も、右手甲の骨折が判明。長期離脱となってしまう。
この間、一軍の外野争いではドラフト3位ルーキーの
清水隆行が猛アピールしていた。当時の巨人外野は右翼・松井と中堅・マックが固定されていたため、実質空いているポジションは左翼のみだった。広澤は二軍で1打席でも多く立ちたいからと、イースタン・リーグの試合に一番打者として出場。34歳のベテランが6月末の沖縄遠征にも同行した。一軍復帰は遅れ、初スタメンは7月10日の
広島戦。この年、球場のファンからの応援ボイコットもあった。結局、勝負の移籍2年目、チームはメークドラマで逆転優勝を飾るも、広澤はわずか38試合の出場で打率.198、4本塁打、13打点に終わる。ヤクルト時代からの連続出場記録も途切れ、通算250号達成がせめてもの勲章だった。
自由契約から阪神へ移籍

阪神では勝負強いバッティングで存在感をアピールした
オフになると構想外がスポーツ紙で報じられ、広澤は出場機会を求めて移籍志願するが、阪神へのトレード話も「広澤は戦力」という長嶋監督の意向で立ち消え、巨人残留となる。長嶋監督からは、「もう少しがんばれ」と激励の電話を受けたが、今度は西武から
清原和博がFA移籍してくるわけだ。相変わらずの逆風だったが、それでも背番号80から10へ変更した1997年シーズン、ようやく広澤は復調する。126試合で打率.280、22本塁打、67打点、OPS.818と巨人移籍後最高の成績を残した。清原の打撃不振により、5月下旬から20試合連続で四番を任され、9月26日の
中日戦ではサイクル安打を記録する。しかし、その年のドラフト会議で巨人は、慶應大の外野手・
高橋由伸を逆指名で獲得するのだ。
1998年、36歳のベテランは左翼、右翼、一塁、三塁と4つの異なるポジションを守り、右の代打の切り札として起用される。192打席と出番こそ少なかったが、打率.301をマークした。だが、翌99年4月29日のヤクルト戦で二盗を試みた際、広澤は右肩を突いて脱臼骨折してしまう。チームはその穴を埋めるため、元西武の大砲
ドミンゴ・マルティネスを緊急獲得する。結局、在籍5年目の1999年は16試合で打率.143と低迷。そのシーズン限りで自由契約となり、かつての恩師・野村克也が率いる阪神への移籍が決まる。
「巨人も僕の処遇をどうするか迷っていたみたいですね。自分としては現役を続けたい、ジャイアンツとしても現役は続けさせたいんだけど、右バッターや代打があまりにも多過ぎるから、どうしようかというところに、僕が自由契約にしてくれないかと話を持っていったので、すんなり決まったんですよ」(週刊ベースボール1999年12月13日号)
今思えば、同じFA組でも長嶋監督を胴上げすると堂々と公言して巨人にやってきた落合や、少年時代からの巨人への強い思い入れを隠そうとしなかった清原、さらにはのちに長嶋監督の背番号33を継承した
江藤智らと比較すると、広澤のFA獲得はファンにもストーリーが見えにくい、いわば感情移入のしづらい移籍だったのは否めない。「僕が最後まで、巨人の雰囲気に深く溶け込めなかったことは事実です」(週刊宝石1999年10月30日号)と広澤自身も振り返り、移籍1年目のマスコミからのプレッシャーに押し潰され、その後は故障に泣き、大型補強の中に埋もれていった悲運の元打点王。これもまた、華やかなイメージが強い、長嶋巨人の明と暗である。
文=中溝康隆 写真=BBM