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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/川口和久】「リリーフやろうよ」引退覚悟から変わった運命“メークドラマ”を完結させた左腕

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

悩んだ末にFA宣言を決断


巨人時代の川口


「シーズン中のことを振り返ると、物足りなさ、マンネリを感じ、新鮮なものがなくなって、自分の気持ちがどんどんトシを取っていく感じだったなぁと。打たれてもしゃあないなぁ、と思うようになっていた。負けても勝ってもあまり感動がない。いつの間にか、闘争心が薄れているんですね。そんな自分がイヤだった。そういう思いにかられて、それを振り払う最良の決断は何か、と考えたんです」(週刊ベースボール1994年12月5日号)

 広島カープで6年連続二ケタ勝利を含む通算131勝を挙げていた川口和久は、悩みに悩み、35歳の秋にFA宣言を決断する。1980年のドラフト会議で、原辰徳(東海大)の抽選を外した広島から外れ1位指名を受け、14年間も在籍したチームに残りたい気持ちも当然あった。しかし、東京にいる義父が病気になり、その看病のため妻が関東の球団への移籍を強く希望したのだ。1994年11月7日夜、ゴルフの賞品でもらって物置に入ったままのFAX送信機を探し出し、広島の球団事務所へFAの申請書を送った。すでに夜7時を過ぎており、慣れないFAXで先方に届いているのか心配になった川口は、念のため書類を二度送信したという。

 最多奪三振に3度輝いた経験のあるベテラン左腕は、阪神から「投手陣のリーダーになってくれ」と好条件のオファーを受けた。社会人のデュプロ時代は、大阪で印刷機械のセールスマン経験もあった川口だったが、あくまで家庭を優先させ、関東の球団を希望する。当初は森繁和投手コーチからの誘いもあり、自分のデータを知っている打者が少ないパ・リーグの西武で8割方プレーするつもりだったという(なお、川口は鳥取城北高時代にロッテからドラフト6位指名を受けるも入団拒否している)。

「じゃあうちの4敗はなくなるね」


巨人入団会見[左から川口、長嶋監督、広澤克実]


 だが、巨人の長嶋茂雄監督から自宅に電話があり(広島のテレビ関係者が川口の目の前で、携帯電話を取り出し長嶋監督とコンタクトを取ったという証言も残っている)、「FAするなら一回、東京で食事をしよう」と誘われ、東京のホテルで中華料理を一緒に食べることになった。同年オフ、ヤクルトからFA宣言した広澤克実が、長嶋監督との会食で、あのミスタープロ野球を目の前に舞い上がって入団を即決したように、川口も子供の頃に選手・長嶋の引退試合をテレビで見ながら、涙を流したほどの熱烈な長嶋ファンだった。当時の野球選手にとって、まさに長嶋茂雄は野球の神にも等しい、少年時代の憧れの英雄だったのである。

「俺が野球を始めたきっかけが長嶋さんだからね。ずっと憧れていた人だよ。翌日、食事をしようとなって、飛行機で東京に行き、神様みたいな人と1対1で食事をした。そこで「頼むよ、巨人に来てくれないか」と言われちゃった。舞い上がるよね。しかも、余命何カ月と言われてた義理のオヤジは巨人の大ファンだった。俺は『ああ、これも運命だな。いい冥途の土産にしてもらえるかな』と思った」(週刊ベースボールONLINE 2018年11月30日)

 その席で、巨人相手に何勝しているのか聞かれた川口が、「(現役投手トップの)通算33勝、今年は4勝しました」と答えると、長嶋監督は「そう、じゃあうちは4敗なくなるね」と言ったという。5年ぶりの日本一を達成した直後、監督自らが直接出馬して「週1回の登板なら、まだ15勝できます」と絶賛する一方で、35歳の川口の獲得には懐疑的な声も多かった。1994年シーズンは、後半戦に盛り返したものの27試合で7勝10敗、防御率4.72。二桁勝利からは3年間遠ざかっていた。この1994年オフ、巨人は香田勲男とのトレードでサウスポーの阿波野秀幸(近鉄)も獲得している。先発三本柱の斎藤雅樹桑田真澄槙原寛己が全員右投手というチーム事情もあった。

移籍1年目は不本意な成績


移籍1年目は4勝と思うような結果を残せなかった


 様々な事情が絡み合い、川口は巨人移籍を決断するが、広島という球団には愛着があった。プロ1年目、キャッチボールをしていると、それを見た四番打者の山本浩二が「ストレート、次はカーブ」と言っているのが聞こえてきた。一瞬で川口の球種ごとのクセを見抜く、プロの一流選手の眼力に圧倒された。2年目の初先発初勝利は、なんとか6回まで投げ、なにかと面倒を見てくれた大野豊がリリーフで最後を締めた。お世話になった先輩たちへの恩は忘れたわけじゃない。それでも、他球団のエースクラスと比べると明らかに年俸が少ない査定システムへの不信感はあった。

「いつの間にか、10勝すれば年俸もそう下がらんだろう、どうせ上げてくれないんだからこれぐらいでいいだろう、という気持ちも出てきてしまったような感じなんですね。(中略)正直いって、野球生活は残り少ないわけですし、家族もあるし、将来の生活もあるわけですから。でも、これまで経験してきたボクらには、広島では、周囲のチームのようなことはないな、と分かるわけです」(週刊ベースボール1994年12月5日号)

 川口自身も全盛期より力が落ちているのは自覚していた。「ピッチャーは鉛筆。芯が減れば削って、最後にはどんどん短くなって、最終的にはなくなってしまう」と日頃から口にする川口にとって、年俸1億円の複数年契約と新しい刺激を与えてくれる環境が、長嶋巨人だった。

 しかし、新天地での川口は1995年の開幕ローテを任せられるも、移籍後初登板の4月12日横浜戦で3回途中5失点KO。4月26日には、古巣・広島との初対決で2失点完投勝利を挙げるも、5月10日の再戦では自身のバント処理のミスから失点を重ねて5回途中でマウンドを降りた。「ベテランのプレーじゃないよ」と堀内恒夫投手コーチは苦言を呈したが、夏場には内転筋痛、シーズン後半には打球を左手に受けて戦線離脱と故障にも泣かされた。8月以降は勝ち星なしに終わり、巨人1年目は、17試合で4勝6敗、防御率4.42。9月27日の横浜戦で史上14人目の通算2000奪三振を、江夏豊に次ぐ2番目のスピード記録で達成したのがせめてもの意地だった。

逆転優勝につながったリリーフ転向


96年、最大11.5ゲーム差を逆転する優勝で胴上げ投手となった


 1996年は開幕ローテ入りも、結果を残せず二軍落ち。堀内投手コーチから「先発を降りてくれ」と戦力外に近い非情の通告をされた川口は、俺の野球人生が終わったと不貞腐れ、練習にも集中できず、競馬へ出かけたこともあったという。だが、そんな川口を救った男がいる。

「5月ぐらいにね。そのとき、初めて引退しようかなって。先発もできないし、もう辞めようかなというときに、8時半の男、宮田(征典)コーチに、『川口もう一回、やろうよ』と言われたんです。『でも、先発できないし……』て言ったら、『リリーフやろうよ』と言うんです」(週刊ベースボール1998年12月7日号)

 かつて球界を代表するリリーバーだった宮田コーチから、「ピッチャーには別の生き方があるんだよ」と諭され、36歳の川口はリリーフ転向を決意する。夏場に一軍再昇格すると、ローテーションの谷間で先発起用されながら、負け試合のリリーフから始まり、そこで防御率0点台と結果を残し、ブルペンの序列を上げていく。やがて勝ちゲームで登板するようになり、9月20日の中日戦でシーズン初勝利、24日の広島戦ではプロ初セーブを挙げる。そして、10月6日の中日戦、最大11.5ゲーム差を逆転する“メークドラマ”を完結させる最終回のマウンドへ上がったのは、長嶋監督から直々に指名された川口だった。最後の打者、立浪和義を見逃し三振に抑え、胴上げ投手に。「自分の野球人生の中で一番心に残るセーブ」と振り返った川口の巨人2年目成績は、29試合で1勝4敗3セーブ、防御率2.95。結果的に背番号25のリリーフ転向は、長嶋巨人の逆転優勝に繋がった。同時にこれが川口の巨人生活のハイライトでもあった。翌97年は3勝、98年は未勝利に終わり、1998年10月3日の東京ドーム最終戦、古巣・広島相手のサヨナラ登板で、金本知憲から通算2092個目の三振を奪い、現役生活に別れを告げた。

 巨人在籍4年間で、通算85試合に投げ、8勝13敗4セーブ。広島時代の実績を考えれば、FA移籍は失敗だったと思われても仕方がない数字が並んでいる。だが、リリーフ転向を受け入れ、“メークドラマ”の胴上げ投手になり、自分の得意じゃない球種も恐れず投げ込む、川口のピッチングスタイルに影響を受けたと公言する木田優夫のような若手投手もいた。そして、現役引退後はドラフト同期の原辰徳監督のもとで、長く投手コーチを務めることになるのだ。憧れの長嶋茂雄に導かれるように巨人入りした川口和久は、「巨人の川口」として自らの役割をまっとうしたと言えるだろう。

文=中溝康隆 写真=BBM
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