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1958年の山内氏。筆者もその高い打撃技術を尊敬していた[写真=BBM]
史上初の300本塁打
前号で現在の日本のプロ野球は投高打低の傾向が強く、本当は逆で打高投低にならなければおかしいと書いた。それはすなわち打者の技術不足、研究不足でもあるのだが、そこで思い出したのが、
山内和弘さんのことだ(のち一弘。毎日・大毎-
阪神-
広島)。投高打低と言われたひと昔前、常に好成績を残し続けた右の強打者。今回はその山内さんの思い出を書き残しておきたい。
山内さんは1932年の5月生まれで私より8歳上になる。2009年に76歳ですでに亡くなっており、もう会いたくても会えないが、私にとっては忘れられない大先輩だ。私は親しみを込めて“おじさん”と呼んでいたが、ここでは山内さんで書き進めていこう。
山内さんは愛知県出身で地元の高校を卒業後、川島紡績という社会人チームを経て、52年に毎日(現
ロッテ)に入団している。まだ1リーグから2リーグに分立して間もないころだ。3年目に打点王を獲得したのをはじめ、通算では本塁打王2回(59、60年)、打点王4回(54、55、60、61年)、首位打者1回(57年)と打撃タイトルを獲得しているが、卓越した打撃理論と高いプロ意識を持っており、まさに打撃の職人だった。
史上初の300本塁打を記録した選手でもあるが、特に内角のボールに対してうまく肘を折り畳んで打つ技術にすぐれ“シュート打ちの名人”と言われた。フルスイングするのではなく、体ごとボールにぶつかっていく打者で、それでも飛距離があり、中距離打者というよりは長距離打者だった。とにかく握力、腕力が強かったことを覚えている。
山内さんは打撃に関しては、同じ大毎にいた・・・
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