
グランド小池商店。98年3月17日、巨人の多摩川グラウンド最後のセレモニーの際の一枚
強烈な馬場さん伝説
多摩川グラウンドでの練習が終わり、寮への帰りのバスが出発するまで、選手たちはその空腹を我慢できる状態ではない。その待ち時間に誰もが必ず寄るのが、土手の向こうにある通称「おでん屋」、グランド小池商店だ。
とは言っても、いわゆる清涼飲料全般とおでん、焼きそばなどのファストフード的なものしか置いてないが、腹空かしの僕らはほぼ毎日のように通う。ちょっと味の染みた黒めの色のおでんは夏冬問わず何とも絶妙な食感と温かさで僕らのすきっ腹に収まり、練習で疲れた心と体は癒(いや)された。
僕のおでん屋の思い出はズバリ、おでん屋のおばちゃん、(小池まつさん 故人)の語ったジャイアント馬場さん(
馬場正平さん)の話。われわれの大先輩であるジャイアント馬場さんは1955年、投手として巨人軍に入団。59年限りで退団後、プロレスに転向し、『16文キック』『32文ロケット砲』『脳天空竹割り』で悪役外国人レスラーを蹴散らし、テレビ中継で暴れまくり、一世を風靡(ふうび)してプロレスブームを作った。
長嶋茂雄さんは監督時代に「俺が(巨人軍に)入って多摩川で初めてキャッチボールをした相手は馬場さんなんだよ」と言っていたのを思い出す(長嶋さんよりも馬場さんは歳下だが、馬場さんのほうが入団が早く、当時、選手は年功ではなく、経験年数で序列が決まっていたので、長嶋さんは馬場さんをさん付けで呼んでいた)。
おばちゃんは「馬場さんはね、とにかく大きいでしょ。よく食べるし、よく飲んだんだよね。ラムネを飲んだら、飲み干して空になった何本もの瓶をそのまま、そこの屋根の軒にズラッと乗せて並べちゃうんだよ。あんなところに置かれちゃ、片づけるのが大変で困ったよ」。一瞬、えっあそこに? と思ったが、その軒の高さを見ると、馬場さんて本当にデカかったんだなぁと思ったものだ。そして、おばちゃんは「馬場さんたちがいるころは合宿所が川の向こうにあってね、選手たちはスパイクを履いたまま、カチャカチャ音を立てて丸子橋を歩いて帰っていった。でも、馬場さんは橋を渡るのがめんどくさいのか、ユニフォームを全部脱いで畳んでから頭のテッペンに乗せて、それをベルトでアゴにくくって多摩川の川幅の細い、流れの緩やかな場所をゆっくり渡って帰っていったよ。あれは背の高い馬場さんしかできなかったね」。
ほ、ほんまかいな! 僕はホントなのォ? っておばちゃんに言ったが、おばちゃんは・・・
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