90年代、黄金期に足を踏み入れる際のスワローズの四番打者。指揮官からの言葉の数々は勇気となり、主砲としての自身の背中を押してくれた。阪神時代に師弟関係が復活するなど、濃い関係はその後も続いた。 
FA宣言したことを野村監督に伝える。指揮官は移籍に反対をしていたが……
「長嶋論」と「野村論」
自身のプロ野球人生を振り返れば、野村監督がヤクルトに来たばかりの1990年、91年あたりが「一番楽しかった」と広澤氏は振り返る。「ヤクルトの黄金時代や、野村ID野球についてのエピソードはほかの教え子たちが披露してくれるでしょうから、私のほうからしゃべることは特にありません」と固辞。その代わりとして、当事者同士しか知り得ないような、とっておきのエピソードを披露してもらった。 本当に偶然なんですけど、1月の中ごろに都内のホテルで野村監督に偶然お会いしたんです。すごく久しぶりだったんですけど、そのときはすごく元気でいろいろとお話をすることができました。ご自身についてネガティブな話をされていましたけど、それらはもはや“野村語録”の一種ですから。元気な証拠だなと思っていました。
そのときの言葉で特に印象的だったのが、「ヤクルト時代は俺の全盛期や」でした。驚きましたね。私としては、野村監督の全盛期は現役選手だった南海時代に三冠王を獲ったり、プレーイングマネジャーとして優勝したときだと勝手に思っていたからです。野村監督が本当にそう思われていたのであれば、たとえ末席であっても、その時代をともに過ごすことができたことに大きな喜びを感じます。
私はヤクルトで野村監督の下でプレーし、巨人で長嶋茂雄監督の下でプレーしています。野村さんからは「長嶋論」を、長嶋さんからは「野村論」をたっぷり聞いており、外では言えないようなエピソードもたくさんあるんですけど(笑)、本当に貴重な経験をさせてもらったと感じています。
野村監督は“長嶋巨人”を本当にライバル視していて、巨人戦前になると長嶋さんを酷評するようなことをメディアの前で言うんです。でも、長嶋さんは「そうですか~」とカラッとしているし、野村監督に対して反論もせず、とにかくスマートに見えました。でも長嶋さんの下で野球をやると、実際にはまったく違いました。長嶋さんも、ヤクルト戦になればとにかくピリピリしているんですよ。そんな思いがあるから、采配面でも早め早めに動くし、時には乱されることもありました。互いに悪くも言うし、その一方で評価もするような複雑な関係性。互いに指揮官を務めた90年代、犬猿の仲だったことは確かでしょう。
野村監督が亡くなられた後・・・