昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは太田幸司さん編です。三沢高3年(1969年)の夏の甲子園の決勝を再試合も含めて1人で投げ抜いて国民的ヒーローとなりましたが、今回はその前段階のお話です。 文=落合修一 
太田幸司
仲間たちと楽しく、のつもりで三沢高に入学
──野球を始めたきっかけから教えてください。
太田 親父は日本人で、英語、ロシア語と堪能だったので戦争中は満州(当時)で通訳の仕事をして、白系ロシア人のおふくろと出会ったんです。戦後は米軍の三沢基地で働きました。僕はときどき基地の中に連れて行ってもらって、アメリカ人の豊かな暮らしに触れました。野球をちゃんとしたチームで始めたのは小4のときです。
──うまかったんですか。
太田 いや、下手。ピッチャーもしていませんでした。三沢一中の2年のときに先輩たちが肘、肩を壊して投げる人がいなくなり、「おい、お前、投げてみろ」と言われたのが投手としての始まりです。あのころは「エースで四番」が女の子にモテたから、「よっしゃ!」ですよ(笑)。球が速かったので、中3になったら近隣では負けなしです。三沢一中から道路一本を隔てて三沢高があったのですが、中学校の野球部のほうが遅くまで練習していたね。
──進路はどのように考えていましたか。
太田 甲子園に出られそうな高校に行きたかったから三沢高に行く気はなく、電車で30分の八戸高に行きたかったんです。でも中学で一緒にやった仲間たちが三沢高に決めていたし、僕の両親も病気がちでよく入院していたので、自分も地元の三沢高に決めました。
──その時点で、三沢高は甲子園未出場。
太田 八戸高から三沢高に進路変更した時点で「甲子園を目指すぞ!」ではなく・・・
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