昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。中日などで活躍した田尾安志さんの3回目は、現役生活の後半を過ごした西武、阪神時代のお話を伺いました。 文=落合修一 
田尾安志
秋山の三塁守備をどう思うのか?
──1985年の春季キャンプ直前に中日から
広岡達朗監督の西武にトレードされた話の続きです。
田尾 1月24日にトレードが決まると、名古屋で連日の送別会。キャンプ前の自主トレができなかったんですよ。西武のキャンプに参加したら、みんな体が出来上がっていた。焦って、無理して外野から全力で投げたんです。それで肘を痛めました。
──前年まで4年連続打率3割だったのが、西武1年目は打率.268。
田尾 でも、13本塁打、60打点だったから、悪くもなかったんですよね。今の選手ならこの成績でも年俸が上がるかもしれません。
──広岡監督はどうでしたか。
田尾 勉強になりましたね。例えば走者一、三塁で一塁走者が挟殺されるとき、二塁を向いてアウトになれ。しかも、外野方向へ体を向けて倒れろと。そうすれば三塁走者がスタートを切りやすいし、本塁への送球が遅れるから。
──それが西武の野球ですか。
田尾 そんなプレーは試合で年に何回もないんですけど、練習を繰り返しました。ライトへの犠飛でも、一塁走者がスタートを切れば一瞬そっちに意識が行って本塁への返球に影響するかもしれないとか、そういう細かい練習を西武はしたんですよ。
──細かいことですが、その一瞬の差がセーフとアウトを分けることもあるでしょうね。
田尾 何度も練習することによって、ほかの場面でも「ここはこうしたほうがいいな」と気付き、応用が利くんです。だから「野球を知っている選手」が多い。僕の野球人生、いろいろな監督がいましたけど、広岡さんが一番勉強になりました。
──当時は堤義明オーナーの西武と言えば「新・球界の盟主」と呼ばれていましたよね。
田尾 外から思っていたほど、華やかではなかったですよ。見えないところではお金を使わない(笑)。
──85年はリーグ優勝しましたが、そのときの思い出は。
田尾 阪神との日本シリーズは第4戦まで2勝2敗でした。勝ったほうが「王手」となる大事な第5戦の先発は
渡辺久信の予定だったのが・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン