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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

広野功(中日ほか)インタビュー<4>新球団・楽天の初代編成部長としてゼロからチームづくり「田尾の続投をひっくり返され、僕はキレた」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。元中日ほかの広野功さんの最終回は、現役引退後に新聞記者を経てコーチとして現場復帰した話、新球団・楽天の初代編成部長だったときのお話をうかがいました。
文=落合修一

広野功


広野「誰ですか?」中「お前だ」


──中日で現役引退した翌年(1975年)、中日新聞の記者に転身したお話の続きをお聞かせください。

広野 大学野球や高校駅伝など、いろいろな取材を経験しました。ある日、中日クラウンズ(男子プロゴルフトーナメント)を取材に行ったら青木功さんが出場していたんですよ。巨人時代から懇意にしていて、同じ「功」でゴルフクラブをプレゼントしていただく仲だったので「お久しぶりです」とあいさつしたら「お前、なんでここにおるんや」と驚かれました。「記者になったんです。何か面白い話ないですか」と質問したら、「おう、それなら教えてやる。今日は新しいクラブでプレーするんだ」と言うんですよ。青木さんがトップに立ったので、「青木、新しいクラブでトップ」という20行くらいの記事を書いたら「これ、本当か。スクープだ」と会社で言われ、長い記事に手直しされ一面のトップに掲載されました。それからプロ野球のドラゴンズ担当記者になったんですよ。

──プロ野球の四番を打った人がそのチームの担当記者になるというのもすごいですね。

広野 新聞記者の仕事ってこうなんだ、と新鮮でした。僕は人の話を聞き出すのが好きだったし、苦痛ではなかったですね。あるとき、巨人戦で王貞治さんが星野仙一から逆転本塁打を打ったんですよ。それがフォークボールだったんです。電話でデスクに「第1打席、第2打席で星野はフォークを投げていなかったけど第3打席のここぞという場面で星野はフォークを初めて投げた。しかし、王さんはそれを読んでホームランにした。駆け引きがすごかった」と説明したら「よし、それを一面の記事に書け。80行だ」と言われました。でも、80行って長いじゃないですか。なかなか書けない。結局、デスクが僕の電話をもとに会社で書いちゃった。翌朝、紙面を見たらやっぱりプロの記者はすごいなあ、と。

──デスクも、元プロ選手の見方はすごいと思ったのではないですか。さて、新聞記者からプロ野球の現場に復帰したきっかけは。

広野 中日は77年のシーズン限りで、監督が中利夫さんに代わりました。僕は番記者として「組閣」を取材したのですが、投手コーチが決まらない。そこで「元西鉄の稲尾和久さんはどうですか」と名前を出したら、球団の人が「九州の英雄が名古屋に来るわけないじゃないか」と言うわけですよ。僕は西鉄時代から稲尾さんとつながりがあったので「僕なら口説けますよ」と、稲尾さんに話を持っていきました。中日新聞のほかの記者も同席して、翌日の独占スクープです。その後、二軍打撃コーチも決まっていなかったので、「来季の組閣完了の記事を書きたい。早く教えてください」と中さんに迫りました。

──どういう反応でしたか。

広野 中さんは・・・

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