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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

山内孝徳(南海・ダイエー)インタビュー<1>野村克也の背番号19を要求したら「くれちゃったから、入団するしかなかった」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは南海末期から福岡ダイエー初期にかけてのホークスのエース、山内孝徳さんです。まずはプロ入りするまでのお話を伺いました。
文=落合修一

山内孝徳


高校時代の前半まで甲子園を知らなかった


──野球を始めたきっかけは。

山内 天草五橋で有名な、熊本県の現在の上天草市で生まれました。米や野菜を自分たちが食べる程度に細々と作る農家で、親父は季節ごとに出稼ぎをしていました。僕は海岸で石を遠くに投げて遊ぶのが好きで、肩が強かったんですよ。3つ上の兄が野球部だったのですが入れ替わりで入学した大矢野中の野球部の先生が兄から聞いていて、「お前、肩が強いんだってな」と、無理やり入部させられたんです。それまで野球未経験だったのですが、肩が強かったから外野を守らされました。3年になったときに投手がいなくなって、「お前、肩が強いから投手をやってみろ」と言われ、そこからですね。

──人生の転機ですね。

山内 投げ方も教えられなかったので、ストレートと我流で投げるシュートしかありませんでした。カーブなんか、分からなかったですよ。それでも地元では結構抑えて、県の大会で優勝しました。

──次は高校進学。

山内 本当は船乗りになりたかったんです。海が近い環境だったし、小学生のときにマゼランの伝記を読んで、あこがれていたからです。高校に進まず、中卒で船乗りになるつもりでした。ただ、中学の野球部で目立っていたから県内の高校から誘いが来たみたいで、その中で東海大二高(現東海大熊本星翔高)が僕と同級生の捕手の2人をバッテリーで欲しがっているぞと中学の先生に勧められました。特待生で学費免除だと聞いたので「じゃあ、行きます」とそのつもりになっていたら、「ほかからも投手が入るから、山内はいらん。捕手だけでいい」と断られたのです。

──ハシゴを外された。

山内 中学の先生は「捕手の奴は東海大二高からしか誘われていなかったが、お前にはほかにもいっぱい来ているぞ。熱心に誘ってくれている鎮西高なんてどうだ」と勧めてくれました。高校野球に興味がなかった僕は鎮西高を知らなかったので、「そこは東海大二高と近いのですか」と聞いたら「同じ熊本市内で近いぞ」と言うから、「じゃあ、行きます。鎮西高に行って、東海大二高を倒します」と誓いました。そこから本格的に、目標を持って野球に取り組むようになったんですよ。

──「打倒・東海大二高」がモチベーションに。

山内 そのために・・・

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