昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。ヤクルトの1990年代の名リードオフマン・飯田哲也さん編、今回は92年の日本シリーズまでのお話を伺いました。 文=落合修一 
飯田哲也
「自分で判断せよ」が野村監督の野球
──ヤクルト・
野村克也監督と言えば「ID野球」ですが、どういうものだったのですか。
飯田 完全に確率ですよ。確率の高いものを選びなさいというのが「ID野球」でした。対戦する投手の球種の割合がストレート60、スライダー20、カーブ10、フォーク10だとしたら、一番投げてきそうのは何ですか。ストレートでしょという話です。そして、そのカウントで外角8割、内角2割だったら外のストレートを待てば来るでしょと。この場面ではどの球の確率が高いかを予想して、場面に合った打撃をしなさいというのが基本です。
──予想の根拠となるデータは、細かく提供されるわけですか。
飯田 そうですね。ミーティングではスコアラーの方々のデータが基になります。やっぱり長打力のある打者とそうじゃない打者では投げてくるボールが違うので、チーム全体でストレートを待ちましょうとかではなく、狙い球も個人的に変わってくるよねって話です。
──先ほどの例だと、外角ストレートが来る確率は48%ですよね。予想した結果、狙いが外れたら「ごめんなさい」なのですか。
飯田 データはあくまでもデータなので、追い込まれてからは自分との勝負です。結果的に三振でも簡単に三振するのではなく、何か仕事をして帰って来い、無駄なアウトになるなという教えもあります。2ストライクから3球粘って三振するのと、粘れずにすぐに三振するのでは違う。1球でも多く投げさせろと。
──その考えがチーム全体に浸透し、ヤクルトは強くなったわけですね。
飯田 浸透したと言いますか、できない人は試合に出られないです。野村さんが選ばない。
──飯田さんは野村監督1年目の1990年に二塁手のレギュラーになり、翌91年にはセンターに。
飯田 91年の新外国人選手(
ジョニー・レイ)が外野を守れるという話だったのですが、来日すると本人が「二塁しかできない」と言い出し、僕は外野に追い出されたんです。
──「せっかく二塁のレギュラーになったのに」と思いましたか。
飯田 まあ、結果的に、外野コンバートがうまく行きましたからね。今考えると・・・
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