昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは元大洋の捕手・土井淳さんです。今年で92歳になられましたが相変わらずお元気で、おそらく掲載は3回では足りません。 文=落合修一 
土井淳
野球は敵性スポーツ、玉音放送を聞く
──生い立ちから教えてください。
土井 1933年に生まれました。
──昭和8年ですよね。
土井 はい。岡山県で生まれました。12歳までは戦争中でしたよ。
──空襲を経験しましたか。
土井 1945年6月29日に岡山大空襲がありました。まあ、逃げた、逃げた。市内の真ん中ではなく少し外れたところに家があったのですが、すごく大きな音がして、外に見に行った親父が「えらいこっちゃ。街が焼けとる。こっちにも来るぞ」と言うから、家族で避難しました。防空頭巾をかぶって、防空壕ではなく、家から離れた場所の田んぼの真ん中に。辛うじて助かって、帰宅したら家は残っていました。しかし、防空壕に避難した近所の人はみんな亡くなっていました。
──そうでしたか。お父さんのお仕事は何だったのですか。
土井 親戚の製材所で、材木を運搬する仕事をしていました。
──土井さんの野球との出合いは。
土井 小さいころから好きで、中等学校野球、大学野球、実業団野球、職業野球と見ていました。実業団は今で言う社会人、職業野球はプロ野球です。オフになると、いろいろなチームが岡山にオープン戦に来るんですね。戦後だったと思いますが、
杉下茂さんが明大の学生のころ岡山に試合をしに来て、見に行った記憶があります。背が高かったですね。
──野球をやるほうはどうでしたか。
土井 好きでしたけど、戦争中は敵性スポーツだったから、大っぴらにできなかったんです。ボールとか、道具もない。石に布を巻いてボールにして、角材をバットにして、田んぼの中で打っていましたよ。街の中でやると目立つし、石だから危ない(笑)。戦時中も、野球が面白いとは思っていました。戦争が終わって、やっと大っぴらにできるぞと。
──玉音放送、聞きました?
土井 親父の実家が田舎のほうにあって・・・
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