昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。中日、ロッテで二塁手として活躍した上川誠二さんの3回目は、落合博満選手との交換トレードの前後のお話です。 文=落合修一 
上川誠二
内角は山内一弘、外角は中登志雄
──1984年に
山内一弘監督が就任しました。
上川 僕はそれまで、上から叩きつけるようなダウンスイングでした。昔は、僕らみたいなタイプは「絶対にフライを打ち上げるな」とよく言われていたのです。高めでも上から叩きつけて、強いゴロを打つ。そういう時代でした。しかし、山内監督から、「その打ち方のままではダメだ。打率が上がらない」と言われたんですね。山内監督は「おまえの場合はこうしたほうがいいだろう。見てみろ」と、レベルスイングでポンと打つ見本を見せてくれました。本当にうまかったですよ。
──さすが、現役時代は大打者。
上川 もう50歳を超えていたと思いますけど、それでもポンポンと打つんです。僕は最初、同じことができなくてね。山内さんの打ち方は難しくてみんなはだんだん離れていったのですが、僕はそれまでのダウンスイングの打ち方だとライナー性のいい当たりがファウルになっていたので、山内監督のやり方を自分のものにしたかったんですよ。
──83年の秋季キャンプですか。
上川 そうです。翌春のキャンプでも全然できなかったのに、段々と以前はファウルになっていた内角からの打球が、詰まりながらもライト線の内側に落ちるようになったんです。それから打撃コーチの中登志雄さんには、外角の打ち方を教えてもらいました。内角は山内さん、外角は中さん。今考えたら豪華ですよね。三遊間に流すのもできるようになってから打率が一気に上がって、この年に初めて3割を打ち(.309)、給料も一気に上がりました。
──84年のドラゴンズは「強竜打線」と呼ばれました。一番から八番まで打順も固まっていましたね。
上川 (捕手の)
中尾孝義さんも打ちましたから、僕は八番が多かったです。その年は敬遠四球で歩かされた数(13)がセ・リーグ最多でした。
──そのころの試合で、特に印象に残っていることは。
上川 86年にストライクゾーンがボール1個分下がったんですよ。メジャー・リーグと同じようにする、みたいな感じでストライクゾーンが低めに広がった。僕はレベルスイングがうまくはまって、低めの球を低いライナーで打ち返せたので良かったんですけど、ほかの打者は調子を崩して、打率を落としました。
──投手有利と言われていましたね。
上川 86年は僕もそんなに高い打率ではなかった(.295)のですが・・・
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