昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。内外野を守るユーティリティープレーヤーとして大洋・横浜、ロッテで17年間プレーした高橋雅裕さんの2回目は、横浜大洋ホエールズ時代を振り返ります。 文=落合修一 
高橋雅裕
どうせ打てないから? スイッチ転向
──1983年にドラフト4位で大洋(現
DeNA)に入団。最初の2年は遊んでいたそうで。
高橋 もちろん練習はしましたよ。ただ、二軍はデーゲームじゃないですか。夜は時間が空くんですよね。僕はお酒を飲まないので、先輩の車に乗せてもらって二俣川あたりのパチンコ屋へ行ったり、夏のオールスター休みには伊豆の白浜まで遊びに行ったりしていました。
──3年間のファーム生活を経て、86年にスイッチヒッターに転向します。
高橋 プロ4年目でしたね。
関根潤三監督のとき(84年まで)は、僕なんてかすりもしなかった。関根さんとは話したこともなかったと思います。そのあと(85年から)
近藤貞雄監督になって、一軍に呼ばれるようになりました。
──左で打つことは、誰から勧められたのですか。
高橋 近藤和彦コーチが、「おまえ、どうせ打てねえんだから、左で打て」と。「は?」って(笑)。そんな簡単に言う? と思いましたよ。
──実際に左で打ってみたら。
高橋 朝の練習で打撃投手を相手に打ったらバットに当たったんです。そうしたら「打てるじゃん。左になれ」って。「そんなのでいいの?」ですよ(笑)。
──すぐに打てたんですね。
高橋 カキンカキンとヒットを打ったわけじゃないですよ。空振りしないでバットに当たったというレベル。子どものころから遊び半分で逆で打ったりはしていたので、それほど違和感はなかったんです。ただ、遊びと仕事は違います。そこから本格的にスイッチを練習しました。
──当時の大洋には
高木豊さん、
屋鋪要さんら俊足の選手がいました。
高橋 でも僕、自分の足が速いと思ってなかったんですよ。「スーパーカートリオに続け」とよく言われましたが、そう言われましても、続けられればいいですよね、という感じ。続くのはそんなに簡単じゃないでしょうって。その時点の僕の目標は一軍定着です。レギュラーになるとか、そんな簡単にできるとは思っていなかったですから。
──遊撃には名手・
山下大輔さんがいました。
高橋 山下さんは・・・
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