
シーズン公式戦の中の1勝に過ぎなかったが、試合後に胴上げが起こるほど喜ばしいことだった
プロ3年目に11連敗、1勝してから28連敗
「国境の長い
トンネルを抜けると雪国であった」。これはノーベル賞作家・川端康成の代表作『雪国』の、あまりにも有名な書き出しだ。
「長いトンネル」と言えば、プロ野球の世界でも選手やチームの不振が長引くとその言葉が使われることがある。投手であれば白星に恵まれず、黒星だけが積み重なっていく状態を指すことが多い。最近だと、
西武の
隅田知一郎が4月19日の
ソフトバンク戦(ベルーナ)で389日ぶりの勝利を挙げ、自身の連敗を12で止めた際に「長いトンネルを抜けることができました」とコメントしている。
それで言えば、元大洋のサウスポー・
権藤正利ほど「長いトンネル」を歩んだ投手はいない。なにしろ彼の連敗は28。1勝もできない期間が丸2年にも及んだのだから。
権藤が柳川商高(現柳川高)から洋松ロビンスに入団したのは1953年である。高卒1年目ながら、権藤は15勝12敗という好成績を残し新人王に輝いた。最大の武器は、当時はドロップと呼ばれた鋭く曲がり落ちるカーブ。権藤は幼少期にナイフで左手人差し指の先端1cmを削ぎ落とす事故を起こしたが、欠損した指ゆえ球に独特の変化が生まれたと言われる。翌54年はリーグワーストの143与四球と制球難に苦しみながらチームトップの11勝(20敗)を挙げた。この年最下位の洋松はわずか32勝(96敗2分け)。権藤の左腕はその勝ち星の3分の1を稼いだことになる。プロ野球人生、まずは順調な滑り出しと言ってよかった。
しかし、チーム名が大洋ホエールズに改められた55年から権藤の歯車は狂いだす。自身2勝2敗で迎えた4月30日の
中日戦(静岡)で2回途中からリリーフに上がった権藤は、そのまま延長10回まで投げるもサヨナラ負けを喫した。そこから勝ち星に見放され、6月30日の中日戦(川崎)まで11連敗してしまう。それでも7月6日の国鉄戦(後楽園)で勝利を挙げ、権藤はトンネルを抜け出した。ホッと一息ついたことだろう。しかし、それ以上に長いトンネルの入り口は、すぐそこまで迫っていた。
7月9日の
広島戦(熊谷市営)、ピンチの場面でリリーフに立つも打たれて負け投手になった権藤は、再び白星から遠ざかる。先発でもリリーフでも権藤は負け続け、シーズンが終わるまでに8連敗を記録した。21敗(3勝)はリーグワーストであった。トンネルは続く。翌56年にいたっては1勝もできなかった(0勝13敗)。これで21連敗。冬が終わり、新たな春を迎えても出口は見えなかった。57年4月11日の
巨人戦(横浜平和)にも負けて24連敗。当時の大リーグ記録をも超えた。そして6月2日の
阪神戦(甲子園)に先発した権藤は、6四死球と制球が定まらず4回途中でKO。シーズン7敗目を喫した。これにより権藤の連敗記録は実に28まで伸びた。
巨人ベンチからも拍手が送られた
権藤に実力がないわけではない。例えば56年は15試合に先発しているが、うち8試合で今でいう「クオリティー・スタート」(6回以上を投げて自責点3以内)を達成しているのだ。好投はする。それでも勝てない。周囲も本人も、もう二度と勝利投手にはなれないのではないかとあきらめかけた日もあったはずだ。それでも権藤は左腕を振り続けた。その意地とプライドが実り、ようやく明かりが見えたのが、57年の7月7日(後楽園)であった。
この年優勝する巨人相手に先発した権藤は、その強力打線に対し完璧な投球を披露する。初回に四球でピンチを招くも後続を切ると、3回表には自らのバットで先制の適時打を放った。4回以降は制球が安定。カーブが決まり、巨人打線につけ入る隙を与えない。そしてこの日投じた134球目で
内藤博文を右飛に打ち取った権藤は、およそ2年ぶりの勝利を完封で挙げたのだった(4対0)。
ようやく連敗という名の長いトンネルを抜けた。その先で権藤の目に映ったのは、雪国ならぬ駆け寄るナインの姿だった。そのまま胴上げされる権藤。まるで優勝したかのような騒ぎだった。負けた巨人ベンチからも拍手が送られた。権藤は思わず涙をこぼしたという。
28連敗にはさまざまな要因がある。1、2年目が順調だったことで逆に油断した面があった。内臓など身体の不調もあった。細身(体重60kg)ゆえ体力不足も指摘された。大洋打線が貧弱だったこともある。だがそれらがすべて合わさっても、これだけの連敗を喫する理由にはならないだろう。確かに言えるのは、そのトンネルが長過ぎたこと。そしてあきらめずその道を歩み続ければ、どんなトンネルでも必ず出口は見えてくるということだ。権藤の空前絶後の連敗記録は、それを教えてくれる。(文=キタトシオ)

こちらもこの試合の直後の権藤正利の写真。やはり細身の体型であったことがうかがえる