
この試合で8回までに8つのポジションを守った日本ハム・高橋博士は9回表、ついにマウンドに上がった[写真提供=産経新聞社]
野村克也の全盛期に南海へ入団した捕手
1964年、宮崎商高の捕手・高橋博士は南海に入団した。63年の夏の甲子園に出場し、2回戦で敗れたとはいえ7打数5安打の活躍を見せて高校日本代表にも選ばれた高橋の経歴を考えれば、球団によっては早くから頭角を現し、若き正捕手として活躍する未来もあったかもしれない。その意味で言えば、高橋は入った球団を間違えた。なぜならば、南海には
野村克也という史上屈指の大捕手が存在したからである。
63年には日本記録(当時)となる52本のホームランをマークした野村が相手とあっては、いかにそのシュアな打撃が評価されようと「捕手・高橋」に勝ち目はなかった。控えとして存在感を出そうにも、野村はその機会すら容易に与えない。ある試合でボールが顔面に当たった野村は、マスクからはみ出るほど顔を腫れさせたことがあった。自分の出番だと高橋は思ったが、野村はそのまま試合に出続けた。「これは絶対に追い越せない壁だ」と高橋は思ったという。
その野村からも打撃は認められていた高橋は、徐々に試合に出場するようになる。ただし内野手や外野手として。71年には規定打席に達して打率.265を記録する活躍を見せ、自身唯一のオールスターゲームにファン投票1位で選ばれたが、ポジションは遊撃。この年捕手として出場することは一度もなかった。
そして72年1月、高橋は東映にトレードされる。交換相手は・・・
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