投球回以上の奪三振を誇った新人
意外なことにその日、伊藤智仁(ヤクルト)の調子は決して良くはなかったという。
実際、伊藤は初回にコントロールが定まらず、安打と四球で一死一、二塁のピンチを迎えている。そのまま崩れてもおかしくはなかった。
「その日」とは、1993年6月9日のことである。皇太子さまと雅子さま(現天皇皇后両陛下)の結婚の儀が皇居にて挙行され、その後のパレードを見るため沿道に19万人もの人々が詰めかけたその日の夜、石川県立野球場では巨人対ヤクルトの11回戦が行われた。先発のルーキー・伊藤にとって、それは初めてとなる巨人戦のマウンドだった。
四番の
原辰徳が打席に立つ。巨人ファンだった伊藤にとって、原はあこがれの存在だったという。その原を空振り三振に斬って取ったところから、この球史に残る一戦は事実上始まったと言ってもいい。続く
駒田徳広からも三振を奪い、伊藤は初回のピンチを切り抜けた。その後、伊藤は3回一死まで6者連続で奪三振を記録することになる──。
伊藤は93年に3球団競合の末、ドラフト1位で三菱自動車京都からヤクルトに入団した。社会人屈指の好投手と目され、バルセロナ五輪でも三振の山を築き銅メダル獲得に貢献した伊藤は、春季キャンプ時から高い評価を得た。右腕をムチのようにしならせて投げ込む快速球と、鋭く曲がる高速スライダーを
野村克也監督は絶賛した。特にスライダーは捕手の
古田敦也をして「自分でも打てない」と言わしめるレベルだった。
開幕一軍こそ逃したものの、4月20日の
阪神戦(神宮)に初登板初先発し・・・
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