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1958年に巨人へ入団した長嶋茂雄は単によく打つルーキーだったというだけでなく、プロ野球を国民的な娯楽へと発展させた大功労者だった
野球ファンの視線を一身に集めた背番号3
13万人。
これは1958年3月21日から後楽園球場で行われた巨人対西鉄3連戦の合計観客動員数である。時期を見れば分かるとおり、その年の掉尾を飾る日本シリーズではなく、それどころかシーズンが始まってもいないオープン戦でのことだった。
驚異的な動員数というほかないが、球場に詰めかけたプロ野球ファンの視線はただ1人の男に注がれていた。巨人の三塁を守る背番号3、ルーキーの長嶋茂雄である。
当時プロ野球をしのぐと言われたほどの人気を誇った東京六大学野球。その通算本塁打記録(8本)を引っ提げて立大から巨人に入団した長嶋には、当然のように注目が集まった。オープン戦は長嶋見たさに連日、満員が続いた。そして「ゴールデン・ボーイ」と呼ばれた新人は、その注目度と破格の契約金(1800万円。当時の大卒初任給は約1万3500円)に恥じない活躍を見せる。オープン戦19試合に出場し、放った本塁打は7本。全選手中トップであった。
だが長嶋にしてみれば、これくらいの成績は当然のことだったのかもしれない。長嶋がプロ入りを目指したのは大学1年生のときだった。驚くべきことに、その時点でプロ野球の世界でどういう選手になり、どういうプレーをし、日本の野球ファンを変えていくことまで考えていたという。立大監督の砂押邦信が先進的な野球の研究に熱心だったこともあり、その模範は大リーグだった。特に・・・
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