
1950年の日本シリーズ第1戦[神宮]の試合終了直後の写真。左から毎日の三塁手・河内[河内卓司]、捕手の土井垣[土井垣武]、若林
シーズンは4勝3敗だった
日本外交史を専門とする慶大名誉教授の池井優は、日米の野球にも通じ、多くの関連書を著している。その池井が高校1年生だった1950年の11月22日、この年から始まった日本シリーズ(当時の名称は日本ワールドシリーズ)の第1戦において、松竹ロビンスと日本一を争う毎日オリオンズ(現
千葉ロッテマリーンズ)の先発は
若林忠志だった。それを知った池井は、思わず言った。
「へえ、荒巻じゃないのか」
意外だったのは池井だけではなかった。のちにリーグ優勝8回を果たす名将で、このときは毎日の一塁手だった
西本幸雄も「本当にひっくり返るほどだったよ」と語っている。
プロ野球がセ・リーグとパ・リーグに分かれて1年目、結成初年度でいきなりパを制した毎日にあって、エースは「火の玉投手」と呼ばれた新人左腕の
荒巻淳だった。26勝&防御率2.06は、いずれもリーグ1位である。一方、若林はわずか4勝。前年まで大阪(現
阪神)でプレーし、「七色の変化球」を武器に通算237勝を挙げていた大投手も、すでに40歳を過ぎ、力は衰えていた。ましてや松竹の打線(通称『水爆打線』)は、1試合平均6.6得点という破壊力を誇っている。若林の先発起用が予想外なのは当然だった。
もっとも若林の先発は、10月末にはすでに決まっていた。言い出したのは若林自身である。総監督の
湯浅禎夫にベテランは言った。シリーズの第1戦は私が投げる、と。
第1球はどこに投げるのだと、湯浅は若林に聞いた。「外角に外れるボール」と若林は答えた。2球目は? 3球目は? という問いにも・・・
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