
写真はオリオンズ創立1年目の1950年、事実上の初代監督となった湯浅禎夫総監督[右]。左は大阪から移籍した若林忠志監督兼任投手
豊富な戦力で初代「日本一」に
毎日オリオンズ(現
ロッテ)元監督の湯浅禎夫が、胃がんのため大阪府豊中市の自宅で亡くなったのは、1958年1月5日のことである。55歳の若さだった。現在では、その名を知る者は少ないかもしれない。しかし、野球人としての湯浅の経歴は晩年の数年間を除き、輝かしいものがあった。
明大時代は闘志あふれる投球で活躍し、2度のノーヒットノーランを達成(史上唯一)。シーズン109奪三振(1925年秋)は、いまだに破られていない。湯浅は東京六大学野球史上に残る大投手だったのである。卒業後は大阪毎日新聞社に入社し、運動部記者として健筆を揮(ふる)った。
49年9月21日、毎日新聞社は日本野球連盟(現NPB)に加入を申請した。プロ野球人気が高まりつつある中、球団を創設することで購読者の拡大を目論んだのだ。オリオンズと名付けられたチームの初代監督(正式な肩書は総監督)を任されたのが、当時運動部長の湯浅であった。
親会社が鉄道会社中心のパ・リーグにあって、唯一のマスコミ企業である毎日は、セ・リーグにおける読売
巨人軍のような立ち位置、いわば「パの盟主」を目指した。そのため、
荒巻淳(別府星野組)や
戸倉勝城(大洋漁業)といったノンプロの一流選手を好待遇で入団させるとともに、大阪(現
阪神)の
別当薫(外野手)や
本堂保次(二塁手)、
土井垣武(捕手)ら主力を引き抜く形で補強した。
実力者ぞろいとはいえ・・・
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