
1956年に西鉄に入団してからの8年間で234勝を挙げた稲尾は64年、勝ち星ゼロ。65年から69年までの5年間で42勝し、生涯成績を276勝137敗とした
猛烈に働いた時代に猛烈に投げた投手
1960年12月、池田勇人内閣は、新たな経済プランを閣議決定した。国民所得倍増計画である。これにより、高度経済成長の時代が本格的に幕を開けることになった。
あらゆる職種の日本人が、より豊かな生活を求め、昼夜を問わず猛烈に働いた。もちろん、プロ野球の世界も例外ではない。その代表的な選手が、西鉄(現
西武)の大エース・
稲尾和久だろう。なにしろ稲尾は61年、78試合に登板し404イニングを投げ、勝ち星を前年の20勝からNPB記録(タイ)の42勝に「倍増」させたのだから。
「鉄腕」。稲尾はそう呼ばれた。高卒1年目の56年に21勝を挙げ、一躍西鉄のエースの座をつかむと、その後も連投を厭(いと)わず、猛烈に投げ続けた。63年までの8年間で、シーズン平均登板数は約66試合、投球イニングは約346回。26歳にして通算勝利数は234勝に達した。
その酷使ぶりを指摘されても、稲尾は意に介さなかった。投げれば投げるほど年俸は上がり、周囲の評価も高まる。何よりも、稲尾は投げること、つまりは働くことが大好きだったのである。
その「鉄腕」に、ついに亀裂が入ったのは、64年の春季キャンプであった。ブルペンでの投球練習中、稲尾の肩にこれまで経験したことがないほどの激痛が走った。肩の、骨と骨の間にある滑液という潤滑物質がなくなり、骨同士が直接ぶつかり合う状態になっていたのだ。明らかに投げ過ぎが原因だった。
投手コーチは・・・
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