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<90年代のプロ野球を語る>西崎幸広×鈴木健 西武OB対談 西武の強さとパ・リーグの思い出

 

1980年代にパ・リーグで6回の優勝を飾った西武。その強さは90年代に入っても変わることはなかった。90年から94年までは森西武で5連覇を果たせば、97、98年は東尾西武で2連覇。90年代は7度のVだ。日本ハム時代に西武に挑んだのちに入団した西崎幸広氏と清原和博のあとの西武の四番を務めた鈴木健氏の思い出話。
構成=牧野正 写真=高原由佳、BBM

西崎幸広、鈴木健[右]


優勝が当たり前の西武


西崎 ケン、今日はよろしく。90年代のパ・リーグの話のようだけど、となるとやっぱり西武になるからね。俺も一応、OBだから(笑)。

鈴木 こちらこそよろしくお願いします。一応じゃなくて西さんも立派なOBじゃないですか!

西崎 早速始めようか。90年代というより、西武は自分が(日本)ハムに入団した年(1987年)から、ずっと強かった。毎年、当たり前のように優勝していた気がするよ。

鈴木 僕は西さんから1年遅れてのプロ入りでチームの中にいましたけど、入団したときからその強さをひしひしと感じていましたからね。よそのチームに入団していれば、もっと早くから試合に出場できたと思います。通算成績も上がっていただろうし、もっと稼げていたんじゃないかな(笑)。

西崎 西武戦に投げるのは嫌だったからね。でもローテーションを崩してでも投げさせられたんだ。あの上下、青のユニフォーム(ビジター用)は見るのも嫌だった!

鈴木 森(森祇晶)監督の時代はポジションが一つしか空いていなかったんですよ。レフト以外は清原さんをはじめ不動のレギュラー陣。DHにはデストラーデがいて、いくらファームで打っても一軍に上げてもらえませんでした。何しろ層が厚過ぎて、本当に入ったチームを間違えたなとしか思えませんでした。

超高校級のスラッガーとして黄金期の西武に入団した鈴木氏。結果を残してひたすら出番を待った


西崎 投げていて気の抜くところがなかったよ。下位でも八番に伊東(伊東勤)さんがいて、九番は……

鈴木 恐怖の九番・田辺(田辺徳雄)さんですよ! 九番で3割&2ケタ本塁打を打っていましたから。

西崎 それで上位に回ってしまうと大量得点になるからね。それでレフトは誰だっけ?

鈴木 空いていると言っても、相手投手が左なら笘篠(笘篠誠治)さん、右なら安部(安部理)さんと決まっていたんですよね。でも確かによく西さんは西武戦に投げていたような気がします。ただ、どの球団も打倒西武でエース級をぶつけてきていましたけどね。

西崎 柴田(柴田保光)さんなんて契約更改のときに「西武に投げる1勝とロッテに投げる1勝の査定を変えてほしい」と球団に訴えていた(笑)。

鈴木 僕は西武で8回も日本シリーズに出場させてもらったんですが、若いうちからそういう大舞台を経験できたことは、その後の野球人生に大きなプラスでした。どんな場面でも、さほど緊張しませんでしたから。

西崎 入団してからは何とかAクラスが現実的な目標だったかな。西武は優勝するから、とりあえず2位、3位のAクラス狙い。今みたいにクライマックスシリーズはなかったんだけど、当時はAクラスになれば来年の開幕戦を本拠地で迎えられたから。

鈴木 でも90年代前半で言えば、ハムも強かったですよ。いつも争っていたのは近鉄、日本ハム、オリックスで、ロッテとダイエーが少し力が落ちていたような気がします。でも西さんは西武に来て良かったじゃないですか。ハムにいたら優勝を経験できずに終わっていたんですから。

西崎 確かに優勝を経験できたのはうれしかったし、大きかった。

87年から96年までチームのエースとして活躍した西崎氏。日本ハムの顔だった


鈴木 西武に来たのはFAでした?

西崎 違う。石井(石井丈裕)とナラ(奈良原浩)の2対1のトレード。ハムの最後(97年)はヘルニアで投げられなくて、そのオフに球団に呼ばれたんだよね。FAの話かなと思ったら戦力外だと言われたから。そう言えば、ハムは春季キャンプ地が沖縄だったんだけど、西武は高知。だから最初に高知に行ったときは右も左も分からなかったんだけど、ケンが「西さん、行きましょうよ!」っていろいろ誘ってくれたんじゃなかったかな。

鈴木 西さんが西武に来るという報道は出ていましたからね。ちゃんと準備はできていましたよ。

西崎 何の準備だよ!

ノーノー未遂から達成


鈴木 5連覇したあと(95年から)監督が森さんから東尾(東尾修)さんに代わり、ちょうど選手も世代交代の時期でした。黄金期の主力選手たちが年齢を重ね、FAなどで他球団に移籍したり……僕も石毛(石毛宏典)さんに代わって三塁を守るなどチャンスが増えていきました。稼頭央(松井稼頭央)なども出てきましたしね。

西崎 その前に秋山(秋山幸二)さんとかがトレードでダイエーに移籍したでしょ(93年オフ)。あのあたりから少しチームがゴタゴタしているのかなという感じはしたかな。自分が西武に移籍したときは黄金期の主力が全然いなくて、なんでいなくなっちゃったんだろうと思った(笑)。結局、森さんは何年(監督を)やった? かなり長期政権だったでしょ。

鈴木 9年やって8年優勝ですよ。

西崎 すごいな。ケンが試合に出られるようになったのは?

鈴木 森さんが辞める(94年)、2年前ぐらいですね。

西崎 そのあと、オリックスが2連覇したのか(95〜96年)。西武の黄金期じゃないけど、当時のオリックスもイチローや田口(田口壮)、助っ人にはトロイ・ニールやD.J(ダグ・ジェニングス)、投手は星野(星野伸之)さんやヨシさん(佐藤義則)に抑えは平井(平井正史)と確かにそろっていた。あと捕手にサメ(オリックスの中嶋聡監督の愛称)。どんどん名前が出てくるし、抑えがしっかりしているチームというのはやっぱり強いよね。

鈴木 我慢して使っていた選手が花開いたという印象でした。それに仰木彬監督の存在も大きかったですよ。土井監督(土井正三、91〜93年)のがんじがらめの野球から仰木さんになって解放された感じがあったのかなと。

西崎 自分がノーヒットノーランをやった年は95年だったけど(7月5日の西武戦/東京ドーム)、確かケンが四番を打ってたんじゃない?

鈴木 清原さんが不調でスタメン落ちだったんですよ。7回、8回と来て、これはまずいなって。四番が何とかしろよと打撃コーチに言われましたけど、みんなに言ってくれと(笑)。

西崎 あの日はすごく調子が良かったんだよね。投げ終わって指先をアイシングしたのは初めて。それほど腫れていたんだけど、それだけ指先に引っ掛かっていたということ。8回になったときは、さすがに3カ月前のことが頭をよぎったけどね。

3カ月前に8回で逃したノーヒットノーランを達成した西崎氏[95年7月5日/西武戦]。マウンド上で喜びのガッツポーズ。捕手・田村藤夫、三塁手・片岡篤史


鈴木 それ覚えてますよ。同じ東京ドームで8回までノーヒット(4月22日)だったのに、センターが打球を見失って三塁打になった試合ですよね。

西崎 大貝(大貝恭史)ね。平凡なセンターフライでよしと思ったら前進してきて……それで途切れた(笑)。

鈴木 実はあの前日の試合でもキップ・グロスに完封されているんですよ。東尾監督が顔を真っ赤にして怒ってて。

西崎 でも森監督のときに比べると東尾監督のときは選手の顔ぶれも変わっていたし、同じ野球というのはなかなかできないよね。

鈴木 野球がガラッと変わりました。森監督のときよりも緻密になったというか、何とかして1点を取りにいく野球になりました。東尾監督は奔放に見えて細かかったですから。計算しているというか。森監督よりも動く回数、例えばエンドランとか多かった。

西崎 とにかく勝負勘がすごかった監督だよね。ひらめくんだと思う。

鈴木 秋山さん、清原さん、デストラーデのような30発打てる打線ではなかったですから。機動力を使って積極的に動いて、細かい野球をしなければ勝てないチームでした。

97年の優勝は延長10回、鈴木氏のサヨナラ本塁打で決まった[10月3日のダイエー戦/西武]。鈴木康友一塁コーチャーに抱き着いて大喜び


西崎 でもそれができたから連覇につながったんだと思う。

鈴木 僕は森監督、東尾監督と2つの野球が見られたのは大きかったです。西さんは東尾監督から直接(西武入団を)誘われたんですか。

西崎 そうだよ。「自由契約って本当なのか、とりあえず飯食おう」と。寿司だったかな。「ウチに来いよ」と言われたので「よろしくお願いします」と。でもそれから少しあとになって、ダイエーから連絡をもらったんだ。最初は誠さん(島田誠・日本ハム時代の先輩)からで「FAするならウチは手を挙げるから」と。すぐに王さん(王貞治、ダイエー監督)から電話がかかってきたんだよね。

鈴木 王さんから?「OH!」と言わなかったんですか?

西崎 ケンもオヤジギャグを言う年になっちゃったか(笑)。

鈴木 いや、僕なら言いますよ!

西崎 でも「最初に声を掛けていただいた球団にお世話になります」と丁寧にお断りさせてもらったよ。

鈴木 やっぱり選手の立場からすると、真っ先に連絡をくれたところに行きますよね。僕もそうでしたから(2002年オフにヤクルトへ移籍)。

西崎 でもその後、ハムから「自由契約じゃなくて戦力として考えている」と言われてね。そしたらトレードとしての戦力だって(笑)。でも当時の西武って優勝慣れしていて、もう優勝旅行なんて行かなくていいだろうみたいな感じになってなかった?

鈴木 90年代前半はキャンプがハワイのマウイ島だったので、優勝旅行までハワイはいいやとオーストラリアに行ったことがありました。でもあそこは季節が日本と逆で真夏。選手のお子さんたちが体調を崩して一度きりに。基本的にプリンスホテルの施設があるところしか行けないんです。それでほかにどこがあるかと調べたらアラスカにあって(笑)。

西崎 アラスカに行って何をするんだよ! それ罰ゲームだよ。

鈴木 そうなると選手たちも「俺は行かないから」「俺もいいや」となって結局、中止になるんですよね。

西崎 自分は初めての優勝だったから連れて行ってもらえると楽しみにしていたんだけど……残念だったな。

スーパールーキー・松坂


西崎 そして90年代の最後に西武にやって来たのが“平成の怪物”と言われた大輔(松坂大輔)だった。キャンプはすごい騒ぎじゃなかった?

鈴木 報道陣の数がすごかったですよね。ファンもたくさん詰めかけて、僕ら選手なのにブルペンにすら入れませんでした。仕方ないので隙間から大輔の投球を見ていましたよ。

西崎 大輔の初ブルペンは投手陣は全員が見てたからね。フォームが少しおかしいところはあったけど、それでもすごいボールを投げていた。これは高校生離れしていると感じたし、モノが違うというのはすぐに分かった。

鈴木 メーン球場とサブ球場なんて歩いてすぐなのに、人が多過ぎて動けないからバス移動でしたよね。

西崎 野球を知らなくても松坂大輔を見たいファンがたくさん来ていたから。だから大騒ぎになるんだけど。そこで考え出したのが影武者(笑)。

鈴木 西さんの発案でしたか!

西崎 そうだよ。タニチュー(谷中真二)に「大輔のジャンパーを着て、向こうへ走って行け!」って言ってね。そうでもしないと移動できなかったし、でもあれでタニチューも有名になったから良かったんじゃないかな。

鈴木 だから僕は大輔のボールを打席に立ってちゃんと見たのは、ヤクルトへ移籍しての交流戦でしたよ。何年後のことやら。

西崎 でも大輔の1年目、自分は抑えをやっていたから、大輔が投げた試合は何年分もの神経を使ったよ。大輔の勝ちを消せないから。

ルーキー・松坂にプロ初勝利のボールを手渡す西崎氏[背番号21]。右は東尾監督


鈴木 90年代の助っ人で思い出すのは誰ですか。僕は西武なら、やっぱりデストラーデにマルちゃん(ドミンゴ・マルティネス)ですね。

西崎 デストラーデは嫌だったな。しかもあれだけ打つのにスイッチ(ヒッター)だったから。

鈴木 読みに長けていて、穴もあまりなかった。日本の野球は弱点を徹底的に攻め込んでいきますけど、それに柔軟に対応していましたよね。日本で成功する助っ人の条件だと思います。

西崎 ブライアント(近鉄)はすごかったけど、わりと得意だったかな。あまり打たれなかった。印象に残っているのはハムのウインタース。プレーよりもパフォーマンスのほうだけど(笑)。

鈴木 僕はロッテのホールの打ち方が好きでしたね。

西崎 ロッテならフリオ・フランコ。初球はなぜかあまり打たなかった。相手投手に敬意を払ってと聞いたことがあるんだけど、だから初球はいつも軽く真ん中に放ってた。

鈴木 90年代当初のパ・リーグの球場というのは狭かったですよね。川崎、平和台、藤井寺……。

西崎 狭いし、なんか暗かった。お客さんが入っていないからそう見えるのかもしれないけど。川崎球場はロッカーが小さいから、若手は通路で着替えていたよ。千葉に移転して(92年)きれいになった。

鈴木 福岡ドームができたとき(93年)は驚きました。広いし、フェンスは高いしで(以後も話は続く……)。

西崎 いやいや、昔の話をしていると延々と続いて終わらないから、このあたりで。ケン、今日はありがとう。

鈴木 こちらこそありがとうございました。また続きをやりましょう!

PROFILE

にしざき・ゆきひろ●1964年4月13日生まれ。滋賀県出身。右投右打。瀬田工高から愛知工大を経てドラフト1位で87年に日本ハム入団。1年目から先発ローテーションに定着して15勝を挙げ、新人王は逃したものの、パ・リーグ連盟特別表彰を受けた。88年に15勝で最多勝のタイトルを獲得し、その後も先発の軸としてチームを支え続けた。95年の西武戦でノーヒットノーランを達成。98年に奈良原浩、石井丈裕との1対2のトレードで西武へ移籍し、2001年限りで現役引退。通算330試合登板、127勝102敗22セーブ、防御率3.25。


すずき・けん●1970年1月13日生まれ。埼玉県出身。右投左打。浦和学院高では高校通算83本塁打(当時日本記録)のスラッガーとして注目を浴び、88年ドラフト1位で西武入団。90、91年にイースタン・リーグ首位打者。93年より頭角を現し、レギュラーに定着。長くクリーンアップとして活躍した。97、98年の優勝に大きく貢献し、97年は最高出塁率、ベストナインを獲得。2003年にヤクルトへ移籍し、同年にカムバック賞、ベストナインに輝く。07年限りで引退。通算1686試合、1446安打、189本塁打、797打点、15盗塁、打率.278。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 パ・リーグ編 2021年12月23日発売より

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