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<90年代のプロ野球を語る>駒田徳広(元巨人-横浜)「打線が固まり、優勝争いも経験して、みんながその気になって優勝できた」

 

90年から93年までの4年間は巨人に在籍。しかし94年からはFAで横浜に移籍した。10年間で通算1302試合出場はリーグトップ。誰よりもグラウンドに立っていた男の90年代回想録。
取材・構成=牧野正 写真=BBM

93年オフに誕生したFA制度。生え抜きで巨人から日本の他球団へ移籍したのは駒田だけだ


宇宙人みたいに浮いていた


 1989年に巨人は藤田元司監督の下でリーグ優勝を飾り、日本シリーズでも近鉄を下して日本一。駒田はチームの中心選手として確固たる地位を築いていた。プロ10年目、27歳で迎えた90年から92年までの3年間は全試合に出場。91年は自己最高の打率.314をマークした。駒田は巨人に必要な選手であり、それは駒田自身も、ファンも思っていたはずだ。しかし長嶋茂雄監督が就任したことで雲行きが怪しくなった。

 90年は2連覇した年ですよね。投打ともにバランスのとれたチームになってきて、80年代からのチームの完成図が出来上がってきたという感じでした。僕自身も20代半ば過ぎで若手から中堅に差し掛かって脂が乗っていた年。チーム力も充実していましたけど、自分たちの器よりも一つ上の器があった。それが西武というチームでした。日本シリーズで4連敗ですからね。

 91年からは、ほかのチーム(の力)が上がってきました。特に野村克也監督のヤクルトが戦略的な面で出てきて、巨人のほうは投打ともに疲れが見え始めてきました。それでも自分たちが圧倒的に強ければ、ほかのチームのことは気にならないんです。でも勝てなくなるとやっぱり違う。野村IDの響きが大きくなってくるわけです(笑)。

 僕自身、まさか巨人を出ることになるとは思ってもいませんでした。ただ僕という選手は比較的自由で勝手気ままな選手。巨人というチームの中でだんだんと違った色に見られてきたのかな……というのは感じていました。藤田監督から長嶋監督になり、シーズン途中から来年は落合(落合博満、当時中日)さんが入ってくるという噂(うわさ)も流れてくる中で僕自身の立場も微妙でした。落合さんが来るのはチームが決めることだから僕にはどうにもできない。ただ、僕の考えていることは理解してもらいたかった。なんか宇宙人みたいに浮いて見られていましたから。でも話し合いの機会ももらえず、自分はもうチームに必要がない、邪魔な選手なんだと思うようになりました。

できれば巨人で野球を続けたかった駒田だが、徐々に「自分の力を発揮できるのはここではない」と思い始めた


 当時は絶対に言えなかったですが、藤田さんには相談していました。藤田さんは僕のモチベーションを心配してくれました。最初は巨人を出るならトレードかなと。でもトレードがもし失敗して残ることになったら、僕の性格からして、もうやる気を失くしてしまうだろうと。そのとおりなんですけど(笑)、それで藤田さんに「巨人を出る覚悟はあるのか」と言われて「はい」と答えたら「だったら黙ってFAしろ」と。近藤(近藤昭仁、横浜監督)さんのところへ行くように言われました。近藤さんは巨人時代に藤田さんの下でヘッドコーチをしていましたから、僕のことをよく分かってくれていました。僕も気心の知れた人のところでやりたいと思っていたので、それで決まりです。僕はこう見えて神経質。知らないチームへ行って気を遣いながら野球をするのは嫌でした。藤田さんもそれを分かってくれていたように思います。

 槙原(槙原寛己)には長嶋監督がバラの花束を持って引き留めに行きましたが、それは当然ですよ。必要な戦力なんだから。僕は必要じゃなかったから何もされなかった、それだけのことです。だから特に何とも思いませんでした。プロの世界では普通のことですよ。

近藤監督2年目となる横浜へ移籍。入団会見での晴れやかな表情。右は近藤監督


「優勝できる自信はない」


 13年間も在籍した巨人に別れを告げて横浜へと移籍した。同じセ・リーグ、同じ関東を本拠地とするチームだったが、勝つことを義務付けられている巨人との違いは明らかだった。入団当初はその違いに戸惑うことも少なくなかったものの、やがてチームへ溶け込んでいく。戦力も整い始め、97年に優勝争いから2位になると、98年には38年ぶりのリーグ優勝、そして日本一に輝いた。

 横浜に来て最初に驚いたことは2つありました。まず食事です。キャンプや遠征先での食事が質素なんです。遠征先の夕飯がカレーライスとゆで卵くらいですよ。だからみんな外食に出掛けるんですが、ただこれはどうせ外食するんだからと質素になった可能性もありますから何とも言えないんですけどね。それにしても遠征先のホテルで選手たちが夕飯をとらないことは驚きでした。巨人時代はほとんどホテルで食べていましたから。食事面はだんだんと改善されていきましたが、キャンプの食事は選手の体のことも考えてもっと豪華にしてほしかった(笑)。

 もう一つは勝利への気持ちです。負けると次、明日、切り替えていこうと言うんですが、その前にやること、考えることがあるんじゃないかとよく思いましたね。気持ちは分かるし、切り替えも早いんですが、勝利への貪欲さはあまり感じられなかった。でもこれも結果がついてくると、どんどんと変わっていきました。そもそも優勝の確率は6分の1。ウチには絶対的な守護神の佐々木(佐々木主浩)もいるし、他球団と比べてもそれほど力の差があるわけではない。これはあとで権藤さん(権藤博、横浜監督)から聞いたんですが、「ウチの内野陣は捕手の谷繁(谷繁元信)を含め、俺が今まで見てきた中で一番の内野陣だ。怖いのは駒田のファウルフライだけ」だと(笑)。打線が固まり、優勝争いもして、みんながだんだんとその気になってきて、98年の優勝へとつながったわけです。

横浜の合同自主トレに初参加


 僕は入団して数年は特に何も言わなかったんですよ。成績を残していなかったこともあって言えなかったんですけどね。説得力がないでしょう。でもチームリーダーのような存在だった琢朗(石井琢朗)から主将に任命されて。主将にすれば言いやすくなると思ったんですかね。それで思い出すのは98年かな、首位を走っていたお盆のころに琢朗が選手を集めて檄(げき)を飛ばした。そこで僕も言ったんです。「別に失敗したっていいんだ。失敗するのは当たり前なんだ」って。ここに来て一番ダメなのはよそ行きの野球をすること。絶対に失敗するなっていう野球をウチがしたら必ず自滅すると思っていましたから、自分も「優勝できる自信なんてないんだ」と正直に言いました。みんな少し驚いていたようですけど、だから「思いきってやろう、失敗を恐れずにやるんだ」と強く言いました。それで優勝できなかったら? それはまた来年頑張ればいいじゃないか、それだけのことだろうと。

 権藤さんがサインを出さないから、選手の間で勝手に作るんですけど、そうすると権藤さんが怒るんです。当然ですけどね。なのでだいだいの目安で作っていたんです。それが選手間で通じ合うんだから、やっぱり当時の選手たちは有能だったんですよ。だからこそ日本一になれたんだと思います。

切なかったゴミ拾い


 90年代の10年間で一番思い出に残っていることは、巨人から横浜への移籍でも、横浜でのリーグ優勝や日本一でもない。それは97年の出来事だった。首位のヤクルトを横浜スタジアムに迎えての9月2、3日の2連戦。2位横浜は2連勝なら1.5差となったが、初戦に石井一久からノーヒットノーランを喫すると、翌日の試合も敗れた。2戦目の9回表、2点をリードされた展開で降雨中断。そのとき、2連敗が濃厚の中でライト側にいた横浜ファンの怒りが爆発した。

 8回表に決勝点を入れられて、もうこのまま逆転は難しいと思ったんでしょう。実際に負けたんですけど(1対3)、雨で中断中にライト側のスタンドからメガホンやゴミが次々と投げ込まれたんです。乱入者もいたのかな。優勝へ望みをつなぐ2連戦ですからファンの方もフラストレーションがたまっていたのでしょう。しかも前日はノーヒットノーランですから。

 その何とも言えない光景をベンチで見ていて、僕が選手全員に拾いにいこうと声を掛けたんです。係員の方が拾っていましたが、どう見ても拾いきれないわけです。だからみんなでゴミ袋を手にして向かいました。こんな形でストレスを発散するのは間違っていると言いたかったですね。僕ら選手が試合中にゴミを拾う姿を見て何かが伝わればいいと思いました。あの出来事が僕の中では一番思い出に残っていますし、もし僕が野球界に貢献できたことがあるとすれば、あの日のゴミ拾いです。あれから横浜スタジアムの応援風景が変わったと自負していますし、モノを投げ込むことはなくなったと思いますから。そう言えばゴミ拾いの次の試合だったか、外野スタンドに「選手のみなさんごめんなさい」と横断幕があったことも覚えています。ああ、ゴミ拾いをしてよかったなと。

97年8月24日の巨人戦[横浜]でサヨナラ犠飛を決めた駒田[左から2人目]。ゴミ拾い事件の10日前の試合


 90年代は思い出深い助っ人も多かったですが、横浜ならグレン・ブラッグスロバート・ローズでしょう。来日当初、ローズがよく日本野球の不満を口にするとブラッグスがなだめていました。ブラッグスはああ見えて優しく、ローズはスバ抜けて対応力がありましたね。あとオマリー(阪神-ヤクルト)は一塁へ出塁すると頼んでもいないのによくアドバイスをくれました。「少し構えが硬いよ」とか。陽気な選手でした。アロンゾ・パウエル(中日-阪神)は頭がいい打撃をすると見ていましたね。投手なら宣銅烈(中日)やロビンソン・チェコ(広島)、それにガルベス(巨人)。宣は来日が遅過ぎました。全盛期に来れば、とんでもない投手だったと思います。

 ある選手が当時のセ・リーグのことをこう言っていたんです。巨人は常に勝たなければいけないチーム、それが使命だと。ヤクルトは野村さんのID野球の下でずる賢い野球をする。中日は星野(星野仙一)監督に手を出されながらも戦っていくチームで、広島はどこよりも練習してユニフォームを泥だらけにして戦うチーム。阪神は西の雄で勝ちたいと思っているけど勝ち方を知らないチームなんだと。なるほどなと思いました。それで横浜は? となったときに言ったのが、横浜だけが何の色もないチームだと言うんです。ただそれも優勝する前の話で、マシンガン打線&大魔神で色が出るようになるんですけどね。

 それと最後に言っておきたいのが、90年代のセ・リーグで一番試合に出ているのが実は僕なんですよ(1302試合)。これはうれしいですし、誇れる記録ですね。

PROFILE
こまだ・のりひろ●1962年9月14日生まれ。奈良県出身。左投左打。身長191cm、体重90kg。桜井商高から投手としてドラフト2位で81年に巨人へ。すぐに内野手へ転向、83年に史上初の初打席満塁弾で鮮烈デビューを飾る。94年に横浜へFA移籍し、2000年限りで現役引退。通算成績2063試合、2006安打、195本塁打、953打点、35盗塁、打率.289。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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