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<90年代のプロ野球を語る>川相昌弘(元巨人-中日)「いろいろなものと戦い続けたからこそ、頑張れた」

 

1990年代のセ・リーグでは、6球団すべてが一度は優勝争いに絡んでいるが、その回数が多かったのが、大型補強を繰り返した巨人だった。チーム内外の激戦の中、この時代に小柄な体でレギュラーの座を守り抜いた川相昌弘氏に聞いた。
取材・構成=藤本泰祐 写真=BBM

1996年7月9日の広島戦[札幌]の2回裏に満塁弾を放つ川相。この一撃を含む9連続安打での大逆転が、この年の「メークドラマ」のきっかけとなった


心底ホッとした「10.8」


 巨人が王貞治監督となる前年の1983年に入団した川相だが、王監督時代は定位置までは少し距離があった。それが藤田元司監督時代にレギュラーとなり、長嶋茂雄監督時代に花開く。そこにあったのは、監督の求めるものを察知し、アジャストする姿勢だった。

 90年代は、僕にとってレギュラーとしてキャリアを積んだ期間ですから、思い出深い10年間ですね。

 僕は王(王貞治)監督の88年まではレギュラーではなかったのですが、89年に来られた藤田(藤田元司)監督が、ピッチャーを中心に守って、1点ずつコツコツ取っていく野球を打ち出されたのが、一つのきっかけになりました。僕は王監督のときには「打たないとレギュラーにはなれない」と思っていたんですが、「バッティングはちょっと捨ててもいい。しっかり守って、バントを完璧に決めて、エンドランが出たらゴロを打ってランナーを進める、そういうことができる選手が求められているんじゃないか」と考えて、その役割に徹底しようと思ったんです。それが、レギュラーにつながったと思いますね。

 そうして89、90年と、ショートの中では中心になって出て、2年連続優勝。これは少し自信になりました。ただ、2年ともシーズンの後半で戦列離脱しているので、100%満足という感じではなかったですけどね。

得意のバントを決める川相。二番打者として、その時々の監督のサインを実行できるよう、打撃や小技に磨きをかけていった


 91年は広島が、92年は阪神と争ってヤクルトが優勝しました。あのころの広島は、いいピッチャーがたくさんいて、攻撃も嫌な野球をやるチームだなという印象がありましたね。阪神は、亀山(亀山努)とか、新庄(新庄剛志)、久慈(久慈照嘉)なんかが出てきて、チームに躍動感が出てきたというか、「80年代のチームとはちょっと変わってきたな」という感じがしていました。

 93年には、巨人はいよいよ長嶋(長嶋茂雄)監督の就任となります。長嶋さんはわれわれの年代にとっては、やっぱり子どものころのあこがれの存在ですからね。どんな野球をされるのか、興味はありました。それでも、選手にとっては、監督が代わるときは、チャンスでもあり、ピンチでもあります。「長嶋さんの下でもレギュラーとしてやっていけるのか」ということがありますから、気を引き締め直して臨みました。

 ただ、そのときの僕は、前年の秋季キャンプは骨折していてバッティングができず、この年のオープン戦も絶不調で開幕を迎えることになったんです。それでも、開幕メンバーを決めるときに、コーチ陣がほかの選手の名前を挙げる中、「開幕は川相でいこう」と長嶋さんが言ってくださったみたいで。その開幕カードで活躍できて、その後も出続けることができました。

 僕のように二番を打っていると、やはり監督が代わると、野球が違うというのはより感じます。藤田監督だったら“待て”のサインが出そうなところでも、長嶋監督だと出なかったり、「バントかな」と思う場面でも、違うサインが出たり。直接、「自分の野球はこうだ」と言われることはなく、われわれはサインを通じてその監督の野球を理解していくわけですが、それに対応できなければ、レギュラーとしてやっていくことはできません。藤田監督のときに教えてもらった野球に、長嶋監督の考える野球に合うものをうまくミックスしてやっていけたのが、93、94年ごろだったかなと思いますね。それが、僕にとっても一番いい成績を残せることにつながったと思います。

 94年の優勝が、「10.8」で勝って、でしたね。こちらは独走状態から追いつかれたほうですから、中日以上にプレッシャーがあったと思うんですよ。それを覆したのが、あの、当日のミーティングの、長嶋監督の「勝つ! 勝つ! 勝つ!」という言葉ですよね。シンプルに、とにかく勝つんだということが、あの言葉に集約されていた。そこで、チームにあった、追いつかれたという悪いイメージがパッと吹き飛んで、「ヨシ、行くんだ」「勝てるんだ」という雰囲気に変わった。長嶋さんは選手のときも「ここ」っていうときに勝負強かったですが、「やっぱり、こういう切羽詰まったときに、この状況を楽しめる、ワクワクするような気持ちになる方なんだな」と思いましたね。

 あの試合、僕は3回にヒットで出て、松井(松井秀喜)が送りバント、落合(落合博満)さんのタイムリーで勝ち越しのホームインをしているんですが、ああいう試合ですから、松井であってもバントのサインが出るだろうと思いました。松井も当たり前のように決めて、流れがよくなりましたよね。

 勝ったときは、心底ホッとしました。負けていたらどうなっていただろう、という感じは正直ありましたのでね。

1994年10月8日、勝ったほうが優勝のナゴヤ球場での「10.8」決戦の3回表に勝ち越しのホームイン。長嶋監督の言葉に勢いを得て戦った


油断はずっとできなかった


 巨人は、94年のあと、96年にもドラマチックな優勝を飾る。川相はいずれの年も、大事なゲームで重要な働きをすることになるが、そんな川相でさえ、常にレギュラー安泰というわけではなかった。毎年のように入団してくる大物選手が、直接、間接に定位置を脅かしてきたからだ。

 96年は、今度は逆転したほうですよね。よく、札幌の9連打、僕もその中で満塁ホームランを打っていますが、あの試合で広島に勝ったのがターニングポイントだと言われます。確かに、あそこで広島を相手に連打連打で勝ったのは、「これからの頑張り次第では行けるんじゃないか?」という雰囲気になるきっかけになったとは思います。ただ、あれは7月の10日前後でしょう(9日)。それぐらいの時点では、例えば首位と10ゲームぐらい離れていても選手はまだまだ優勝をあきらめてはいませんから、そこまで気持ちが変わったわけではないですけどね。

 あの年は、ちょうど僕が選手会長になった年。僕自身は、前の年に手首を手術したこともあって調子が悪かったんですが、チームの優勝が何よりですので、そこに貢献できたことはうれしかったですね。気持ちを切らさず、しぶとく戦っていく雰囲気が、チームには大事なんだな、と学びました。

選手会長を務めていた1996年、円陣でナインに声を掛ける川相。この年、「しぶとくやっていく、というチームの雰囲気は大事なこと」と学んだという


 90年代の終わりだと、98年の横浜の勢いがすごかったですね。ちょうど脂が乗ってきた、いいメンバーがそろっていました。それが、あまり管理しないで選手をうまく乗せていくタイプの権藤さん(権藤博監督)の采配とうまくマッチしたのではないでしょうか。

 90年代は、FA制度もできて、巨人の場合は、毎年毎年、FAやトレードやドラフトで大物選手が入ってきた時代でもあります。やはり誰かが入ってくると、直接的なライバルになることもあれば、間接的に影響を受けることもありますよね。僕も、レギュラーを脅かされたり取られる可能性は常にあると思っていました。油断はずーっとできなかった。「誰が来ても絶対俺は頑張るんだ」という強い気持ちで練習を繰り返した時代でしたね。

 そういうチーム内の競争も激しかったし、また、各チームにいいショートがたくさんいました。特に年齢の近い池山(池山隆寛、ヤクルト)、野村(野村謙二郎、広島)は意識しましたし、少し下にも久慈、立浪(立浪和義、中日)、石井琢朗(横浜)といましたからね。90年代は、ホントに僕にとって、いろんなものと戦っていた、一番熱かった時代。チーム内にも、チーム外にも、ライバルがいたからこそ、「負けないで頑張っていこう」と、充実した選手生活が送れたのだと思います。

PROFILE
かわい・まさひろ●1964年9月27日生まれ。岡山県出身。岡山南高からドラフト4位で83年に巨人入団。89年に定位置を手にするとゴールデン・グラブ賞。計6回同賞を獲得する守備と、史上最多の533犠打を記録した小技の冴えを主武器に、90年代の巨人のショートを守り続けた。94年ベストナイン。2004年中日に移籍し、06年限りで現役引退。通算1909試合、1199安打、43本塁打、322打点、47盗塁、打率.266。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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