
上田監督は私を二番打者に起用しても「思い切って自分の打撃をしなさい」と言うだけでした
12球団の新入団選手発表会が、次々と行なわれています。
私がプロ入りしたときの
日本ハムの監督は、
上田利治さんでした。上田監督といえば、プロ野球監督歴20年、リーグ優勝5回(うち日本一3回)の名将。阪急監督時代の1978年、
ヤクルトとの日本シリーズで左翼ポール際の打球判定を巡り、1時間19分に及ぶ抗議を行なったエピソードでも、よく知られています。
そのときの映像を見ても分かるように、昔の上田監督は熱さ、激しさを持った監督だったそうです。ただ97年、私が日本ハムに入団したころの上田監督は激しさの部分を多少、抑えていたように感じました。それでも1試合に賭ける想いと、チームを率いて戦う熱量は、すさまじかったですよ。ベンチでも常に前列真ん中で、片足を前の段に掛け、今にもベンチから先陣を切って飛び出さんばかりの体勢でした。
通りすがりにあいさつをすると、「どうだ?」と言いながら、次の瞬間にはもういなくなっている、忙しい感じの方。でも、あの「どうだ?」というさりげない一言が、ルーキーにとってはうれしいものでした。
私は2年目の98年、チーム事情により捕手登録となりました。ところが5月、キャッチャーフライをダイビングで捕りに行き、左手人さし指を骨折して登録抹消。翌日、上田監督から電話が入りました。
「ウナギの骨を食っておけよ」
監督いわく、ウナギの骨を食べると骨が早くくっつきやすくなるとのこと。何より、速攻で電話をいただき、声を掛けてくださったことがうれしかったですね。「自分は必要とされているんだ」と思えて、1日も早く復帰しようとリハビリを進めました。実際、骨はまだ完全にくっついてはいなかったけれども、なんとか力になりたいという気持ちでバットを振りました。
使ってくれた監督
2週間ちょっとで再昇格すると、代打で使ってもらえるようになりました。打席数は少ないながらも、打率3割をキープしていたため、「なんとか4打席立たせたい」と上田監督がおっしゃったそう。そこで、一塁起用のチャンスをいただきました。もちろん、さまざまなタイミングも幸いしたのだと思います。しかし、上田監督の「4打席立たせたい」という一言がなければ、今こうして評論家となり、コラムを書いていたかどうか、分かりません。
99年、私は二番に抜擢されました。監督には「思い切って自分のバッティングをしなさい」と言われただけ。ほどなく私は、“バントをしない二番打者”と呼ばれるようになりました。
一塁守備については、よく目をつぶっていただきました。内心、ストレスを感じていらしたと思います。それでも上田さんは、私を代えませんでした。99年は全試合、フルイニング出場。プロで初めて1シーズンを戦い、最後に少しへばりました。終盤まで3割だった打率は、最終的に.285。一軍でシーズンを戦い抜くためには、心身ともに体力が必要だと痛感したのがこの年でした。
私がここに至るまでの、プロ野球選手としてのさまざまな礎を作ってくれたのが、上田監督と過ごした3年間。上田監督の野球観や野球論を、直接お聞きしたかった。当時、その勇気がなかったことを残念に思います。
PROFILE 小笠原道大/おがさわら・みちひろ●1973年10月25日生まれ。千葉県出身。暁星国際高からNTT関東を経て、ドラフト3位で97年に日本ハムに入団。02年から2年連続首位打者。06年には本塁打王と打点王の2冠を獲得し、パ・リーグMVP。FAで
巨人移籍後の07年にもセ・リーグMVPを受賞した。14年に
中日に移籍し、15年限りで引退。通算成績は1992試合、6828打数2120安打、378本塁打、1169打点、打率.310。引退後は中日、日本ハム、巨人で二軍監督、コーチなどを歴任し、2024年から評論家活動を開始した。