管理部長として80年代前半からの西武黄金時代の礎を築いた根本陸夫。ドラフト戦略やトレードにおいて、巧みな手腕を発揮して「球界の寝業師」の異名を取った、実質的な日本で初のGMだ。果たして、その辣腕の裏にはどのような戦略が隠されていたのか。同時代を生きた記者による回想――。 文=佐野慎輔(サン
ケイスポーツ)
写真=BBM

▲「球界の寝業師」の異名を取り、多くの衝撃的な移籍をまとめ上げた根本陸夫
「まだ、ケガ人が出る」 ああ、そうだったのか。その言葉に、ストンと腑に落ちた。
つい最近読んだ週刊誌に、かつて
中日、西武、
阪神で活躍した
田尾安志がこんな話をしていた。『西武には二年いて、二シーズンとも優勝。二年目は日本一にも輝いた。でも、どうしても試合での使われ方に納得がいかないし、監督としっくりいかず、自らトレードを志願したんです。管理部長だった根本(陸夫)さんに直訴したところ、「どこでもいいのか?」と尋ねられ、「いいです」と答えたら、「大洋(現横浜
DeNA)でもいいか?」』(週刊文春2013年12月5日号)
西武の主力だった田尾のトレード話が耳に入ったのは、当時所属していた新聞社の阪神担当からの電話だった。「西武と阪神との間でトレードが進んでいる。田尾と吉竹(春樹)プラス若手らしい。裏をとってくれないか」という。「えっ、田尾?」。私は半信半疑。田尾はわずか2年前、左腕投手の
杉本正、ベテラン捕手の
大石友好の2人を出してまで獲得した人気選手、有り得るのか。しかし、阪神担当はかなりの確証をつかんでいるようだ。
ともかくチーム編成を一手に握る取締役管理部長、根本陸夫に直接あたらなければならない。1人でいるところを見計らい、おずおず切り出すと・・・
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