2005年にリーグ優勝&日本一を果たした千葉ロッテマリーンズ。その原動力の一つが勝利の方程式「YFK」であったことに、異論はないだろう。7回・藤田宗一、8回・薮田安彦、そして9回・小林雅英。今回はその中から藤田氏と薮田氏を招いて、至高の“リリーフ論”から、中継ぎという役割の難しさ、選手だけが知る裏話まで、存分に語ってもらった。 取材・構成=杉浦多夢、写真=高塩隆(対談)、BBM 
左が薮田安彦氏、右が藤田宗一氏
05年プレーオフの裏側
2004年、ボビー・バレンタインが9年ぶりにロッテの監督に復帰すると、それまで先発で思うような結果を残せていなかった薮田安彦氏は中継ぎへの転向を命じられる。入団以来、リリーフのスペシャリストとして投げ続けていた藤田宗一氏/F、絶対のクローザーに君臨していた小林雅英氏(現ロッテ投手コーチ)/Kに、最後のピースであるYが加わった。そして迎えた05年、勝利の方程式「YFK」の活躍もあり、ロッテは31年ぶりとなる日本一を勝ち取った。 ――05年当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。
藤田 今年はもしかしたらいけるっていうのがあったよな。
薮田 04年が0.5ゲーム差でプレーオフを逃していたので、05年はちょっと違った感じで入っていけましたね。ただ、
西武とのプレーオフ(第1ステージ)は緊張した。
藤田 シーズンで10ゲーム以上(18.5ゲーム)の差があったしね。
薮田 それだけに、ここまできて3位に負けるっていうのは……。ファンからもそういう空気がすごい伝わってきていたし。でも、連勝できたのは奇跡ですよね。
藤田 だって(松坂)大輔と西口(文也)だったからね。正直、大輔でひとつは取られるだろうなってイメージでいた(笑)。
――そこを連勝で突破し、第2ステージも
ソフトバンクを相手に連勝。王手をかけた第3戦も9回までに4対0とリードを奪いました。
藤田 9回に雅(小林雅英)が行った時点で、もう決まったと。
薮田 4点差はさすがに逆転されないだろうと誰もが思っていました。僕はその試合で投げていてベンチにいたんですけど、みんな、カメラを用意していましたから(笑)。
藤田 自分はブルペンで待機していたけど、雅が登板したので投手コーチの園川(一美)さんが「もうベンチに行っていいぞ」って。でもベンチに行ったとたんバタバタと(笑)
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