取材・文=寺下友徳、写真=山田次郎 
徳島・池田高校で一時代を築いた故・蔦文也元監督の功績を称える「蔦先生追悼親善試合」が4月28日の命日を前に開催[吉野川運動公園=通称・池田球場、写真]。蔦監督の教え子で、1985年春の4強メンバーだった板野高・和田監督が森井を育成した
徳島県立板野高校。1906年「板野郡立蚕業学校」として創立以来、プロ野球選手を輩出した実績はない。春夏を通じて甲子園出場もないチームの3年生エース右腕が、NPB12球団から注目を集めている。
森井絃斗。184センチの長身から、ややスリークオーター気味に投げ込む最速150キロのストレートが軸。変化球は徳島中央シニア時代にキャッチボールを重ねながら習得した横スライダーとシンカー系のツーシーム、高校で習得したチェンジアップのほか、タテ変化のスライダー、フォークも兼ね備える豪腕である。
中学時代の最速が132キロだった森井が、高校でなぜ急成長を遂げたのか? そのキーは「高い自意識」と「将来を考えた指導者」である。
徳島中央シニア時代の総監督は現役時代に
広島、阪急の左腕として通算93勝を挙げた
白石静生氏。「白石さんが投手としての必要なことをすべて教えてくれた」と森井は今でも、感謝の気持ちを忘れない。卒団後も怠りなく、個人的に体幹・腹筋・ミニハードルトレーニングを続けたことにより、高校野球にも「スムーズに入れた」と話す森井は、板野高でも指導者に恵まれた。
同校を率いる和田哲幸監督は池田高で1985年、センバツ4強時の三塁手だった。元千葉
ロッテ投手の帝京五高(愛媛)・
小林昭則監督と同期だった筑波大では、主将にもなっている。ランジトレーニングなどの鍛錬によって、森井いわく「計画どおり」1年夏に140キロに到達する一方、1年秋以降は徐々に右ヒジの痛みが増していく中、指揮官は大器の将来を見据え、一つの英断を下す。
「ここでクリーニング手術をすれば3年夏には・・・
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