文=大内隆雄 
明大では63試合に投げ23勝24敗、防御率1.91
超スピードボールを捨てて「顔」を大事にした
それにしても、これだけ日本の野球という野球を自分のものにして、しかも亡くなるまで現役の野球人として誰もがその名を知る存在であり続けたのは、この人だけではなかっただろうか。この点では
川上哲治も
西本幸雄も
長嶋茂雄も
王貞治も及ばない。
こういう多面的な野球人をどう語ればいいのか途方に暮れてしまうのだが、筆者は星野の、のちの野球人生のすべてが明大時代に示されていた、という、やや牽強付会になるが、この視点で述べてみたい。筆者は、近年では2016年(『
中日ドラゴンズ80年史1』)と05年(『東京六大学野球80年史』)の2度、かなり長時間、星野から話を聞く機会があったが、この記憶を元に原稿を進めていきたい。
星野仙一のピッチングを初めて見たのは、ちょうど50年前の1968年東京六大学野球春のリーグ戦、対法大3回戦だった。法大は明大1回戦まで9連勝。10戦10勝でVに花を添えるか、と思われたが、2回戦で思わぬ敗退(3対5)。3回戦は1回戦で敗れた明大のエース星野が「こうなったら勝ち点も奪ったるワイ!」と手ぐすね引いて待ち構えていた。もちろん、こんなことはいまだから想像できることで、当時はただひたすらスーパースター・
田淵幸一(法大)のホームランが見たいだけだった。
ところが、四番・田淵は星野を・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン