1980年代の高校野球をリードしたのは間違いなくPL学園だ。特に「KKコンビ」と言われた清原和博、桑田真澄が5季連続で出場した83~85年と、片岡篤史らを擁し春夏連覇した87年はファンを魅了。そのPL学園の強さの源は何だったのか──。清原氏と片岡氏にたっぷりと語ってもらった。 取材・構成=椎屋博幸 写真=高塩隆、BBM 1980年8月に中村順司監督が就任して以来、10年間の甲子園20大会中、6度の頂点に立っているPL学園。そこにはもちろんスタープレーヤーの躍動があったが、それ以上に、厳しい寮生活と練習を耐え抜いた強いメンタルと、上っつらだけでない団結力がベースにある。
意外に少なかった打撃の時間
――清原さんと片岡さんが、それぞれ甲子園にあこがれた理由とPL学園に入学されたいきさつなどを教えてください。
清原 甲子園にあこがれたのは、早実の荒木(
荒木大輔)さんや池田の水野(
水野雄仁)さんなどのスーパースターを見てからですね。当時甲子園出場選手のプレー写真がカラーで載っている雑誌を読んであこがれが強くなりました。そこから夢が「甲子園」に出ることになりました。当時大阪は激戦区。その中でPL学園は少数のメンバーで1年生から練習させてもらえるということが入学した大きな理由です。
片岡 私の場合は、逆転のPLを見て野球を始めて、中学3年生のときには、すでに清原さんや桑田(桑田真澄)さんが活躍されていて、全国制覇が当たり前だという状況。PLのユニフォームと校歌にあこがれ……PL学園に入学しましたね。
清原 入部当初は、練習のキツさよりも、えらいところに入ってしまった、と。寮生活の厳しさがすごかったから。甲子園でのプレッシャーより寮生活の厳しさのほうが勝っていた。入る前にこんなに厳しいとは思っていなくて……知ってた?
片岡 PL学園は寮生活だから、厳しいらしいよ、というウワサは聞いていました。実際に入ってみて、普通の生活の中でメンタルが鍛えられました。でもそれ以上に、全国の舞台で戦えるチームという魅力のほうが大きかったですね。それと当時の思いとしては・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン